再度復帰した格闘技においても、数々の名勝負を繰り広げている。
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1988年4月4日、東京ドーム。アントニオ猪木の引退試合で相手を務めたのは、その前年より新日本プロレスに参戦していたドン・フライだった。
これに先立って行われた引退試合対戦者決定トーナメントに参加したのは、次の8選手。猪木の直弟子にあたる藤原喜明、藤田和之、小川直也。UWF系の山崎一夫。PRIDE1で空手家の黒澤浩樹を下したイゴール・メインダート。そしてUFCから新日参戦を果たしたブライアン・ジョンストン、デイブ・ベネトゥー、ドン・フライといった格闘技色の強い面々であった。
準決勝へと駒を進めたのはメインダート、小川、ジョンストン、フライで、ここからフライと小川が勝ち上がり挑戦者決定戦へ。ファンのほとんどは、小川が勝利して猪木最後の試合に挑むことを期待していたし、そうなるものと信じていた。
しかし、フライがTKO勝ち。その瞬間、会場内は一瞬の沈黙の後に深い溜息に包まれた。
「でも、仮に小川が猪木とやったとしても、どっちが勝つんですか。猪木が勝ったんじゃ、小川の商品価値を下げることになるし、小川が勝てば『猪木越えだ』『闘魂の後継者だ』と喜ぶファンもいるだろうけど、最後の花道に黒星なんて猪木自身が納得するはずがない。じゃあ、時間切れ引き分けかといっても、長い時間戦えるだけのコンディションが整えられないから引退するわけで…」(当時の新日関係者)
対戦者決定トーナメントに格闘技系の選手がラインナップされたのも、猪木の体調による部分は大きい。猪木の肉体はボロボロで、長時間にわたって互いに大技を受け合うプロレス的な試合は、もはや困難だったのだ。
そうして考えたときに、この当時に悪役として売り出し中だったフライは、格闘技での実績もあり、猪木が“勝って終わる”のに最もふさわしい相手であった。
「同年2月の大会で小川とのシングル戦に敗れたフライが、試合後も小川を殴り続け、それを猪木がナックルパートで救出するという前振りはあったんだけど、ファンには伝わってなかったみたいだね」(同)
肝心の試合は、序盤にフライがパンチで攻勢に出るも、猪木が徐々に巻き返して最後はグラウンドコブラで勝利。大団円の引退セレモニーとなった。
「フィニッシュ直前の延髄斬りは猪木史上でも屈指の美しさで、これはむろん猪木の技量があってのことですが、同時にフライの“受け”の巧さも光りました」(プロレスライター)
★“風車の理論”を髙山戦で具現化
大学時代にはレスリングのグレコローマン、フリーの両方で、全米制覇を成し遂げたフライ。卒業後は消防士として働きながらプロボクシングデビューを果たし、同時期には独学で柔道も学び黒帯を取得している。
大学時代のコーチだったダン・スバーンのスパーリングパートナーを務めたことから、自身もUFCへ参戦すると、いきなりトーナメント優勝を果たし、そこから約1年間で11戦10勝1敗の好成績を記録している。唯一の黒星を喫した相手は、のちにPRIDEグランプリを制するマーク・コールマンであった。
「ただし、フライはもともとがプロレスファンだったそうで、拳のケガで休養していたときに猪木やマサ斎藤から直接のスカウトを受けて、新日との長期契約に至りました」(同)
その後は新日マットで暴れる一方、小川の格闘技指導にあたったり、あるいは猪木軍の一員としてK−1やPRIDEへの参戦を果たすことになる。
フライの名勝負として今も語られるのが、2002年6月のPRIDE21、髙山善廣とのバチバチの殴り合いだろう。
「言ってはなんですが、髙山はあのボブ・サップに一本負けをくらうなど、総合の技術は決して高くない。総合の黎明期とはいえ頂点を極めたフライにとって、難しい相手ではなかったはずです」(同)
それでもあえて髙山の真っ向勝負を受けて立った、その心意気はまさしくエンターテイナーのそれであり、また「相手の力を最大限に引き出して、それを上回る力で勝つ」という、猪木の“風車の理論”を感じさせるものでもあった。
2002年8月にはジェロム・レ・バンナを相手に、初のK−1ルールにも挑戦。1ラウンドKO負けを喫したものの、これもまた猪木の「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」の精神に通じるものがありそうだ。
こうして見ると、実は猪木の正統なる後継者は、小川でも藤田でもなく、引退戦を通じてその魂を引き継いだフライであったのかもしれない。
ドン・フライ
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PROFILE●1965年11月23日、アメリカ合衆国アリゾナ州出身。
身長185㎝、体重110㎏。得意技/パンチ、裸締め。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)