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田中角栄「怒涛の戦後史」(10)事業の師・大河内正敏(上)

 昭和9(1934)年3月、この前年に新潟県柏崎の二田尋常高等小学校を卒業した田中角栄は、念願だった上京のチャンスを得た。

 卒業後は、成績抜群であったにもかかわらず家庭の窮状から中学へは進まず、救農土木工事や柏崎土木派遣所で、トロッコを押したり、現場監督まがいの仕事に汗を流していた。その間、負けん気が強く向学心に燃える田中は、中学の講義録を取り寄せては猛勉強、やがて“来たるべき日”に備えたものだった。

 その日は、意外な形でやってきた。ある日、かねてより田中の上京への熱意を耳にしていた隣村の村役場のベテラン職員が、駆け込んで来てこう言った。
「田中君、先日、大河内正敏先生にお会いしたんだが、君の向学の希望を伝えたところ、先生は承諾された。君は大河内邸の書生として、学校へ通えることになったぞ」

 このチャンスは、逃がせない。田中が母親のフメに話を伝えると、母は心から喜んでくれた。そして、上京前夜、ビタ一文手をつけずに積んでおいた田中が渡していた毎月の月給を「これを大事に使え」と差し出し、ほぼ全額の85円を持たせて言ったのが、かの有名な三つの言葉である。
「人間は、休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むかの二つのうち、働いてから休むほうがいい。また、悪いことをしなければ住めないようになったら、早々にこっちに帰って来い。そして、カネを貸した人の名前は忘れても、借りた人の名前は絶対に忘れてはならぬ」

 のちに、田中は自著で、「あの日の母の言葉は一生忘れなかった。守ることができたと思っている」と述懐している。ちなみに、母が手渡してくれた85円は、大工などの職人の日給から換算すると、今日の金額で100万円弱と推計される。

 上京への旅立ちは3月27日朝、柏崎発、信越線回り上野行きの鈍行列車である。途中の高崎駅で高崎競馬に持ち馬を走らせていた父、そして桐生に嫁いでいた長姉と落ち合った。田中は、上京後は学校の入学金と初めの月謝が払えればなんとかなると、ここで父に50円、姉に20円を渡した。

 自分は、今日の金額で20万円ほどだけをふところに、まさに“なんとかなるだろう精神”ということだった。のちの政界での生き方を検証すると、田中は窮してもなお随所に、この精神、すなわち楽観主義がうかがえたのである。

 上野駅に着いたのは、3月28日。高崎で父親と久しぶりに会ったことで、その夜は二人で旅館に一泊、翌朝、高崎発の列車で上野に着いた。その日は、柏崎の知人が紹介してくれた、群馬県に本社を置く井上工業という土建会社の東京支店を訪ね、会社近くの旅館で一晩をすごすことになった。いよいよ明日29日は、「大河内正敏先生」の邸宅を訪ねることになる。期待に弾む胸の高鳴りの一方で、不安が顔を出す。眠れぬ夜が明けると、東京は朝から大雪だった。

★「理研コンツェルン」の総帥

 そも、大河内正敏なる人物は、どんな人だったのか。

 千葉県の旧大多喜藩・大河内正質の長男で、東京帝国大学卒の工学博士にして科学者、実業家、また子爵、衆議院議員でもあったことから、「殿さま」とも呼ばれていた。

 一方で、大正10年、大河内はその4年前に、「タカジアスターゼ」の発明で知られた高峰譲吉の呼びかけで、わが国初の自然科学の総合研究所である「理化学研究所」が創立され、3代目の所長に就任した。ここでは、科学者と実業家としての才を存分に発揮し、基礎科学者には自由な研究を認め、応用研究で実った成果を企業化して収益を上げたのだった。

 ピーク時の昭和15年頃には傘下の企業が60社以上、120を超える工場が全国に設立されるなど、科学者の一方で実業家としての手腕は、「時の財界に新風を送った」と評価されている。今日の事務機器大手の「リコー」や製薬大手の「協和発酵キリン」、“ふえるわかめちゃん”で知られる「理研ビタミン」などは、どれも「理研コンツェルン」と呼ばれたグループ傘下の企業に源流があるのである。

 また、人材育成面での実績も高く、原子モデルを提唱した長岡半太郎、昆布から“うま味成分”を見つけた池田菊苗、ビタミンB1で脚気を防げることを発見した鈴木梅太郎、強力な磁石を発明した本多光太郎、日本の原子核物理学の父とされ加速器サイクロトロンを作った仁科芳雄、さらには、いずれもノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹、朝永振一郎と、錚々たる科学者を輩出したことでも知られている。

 ちなみに、STAP細胞の研究不正問題で騒がれたO女史も、この理化学研究所の研究員だった。

 この大河内は、やがて田中角栄の立身に深く関わることになる。すなわち、田中はこの大河内を頂点とする理研コンツェルン関連の仕事を引き受けることで、一気に事業家としての資質を開花させていったのである。

 田中が生前、よく口にしていた「私には三人の先生がいる」としたその一人、大河内正敏こそ、田中にとってはその先の政治家としての人生につながる、まさに「事業の師」と言えるのである。

 しかし、さてトランク一つで大雪の中、訪ねた大河内邸ではさんざんな目にあった田中であった。時に、16歳。プライド高き“お上りさん”の、これ屈辱のシーンは次号で。
(本文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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