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【戦国武将最上義光編】「羽州の狐」の冷血は老いてもなお健在だったが…

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提供:週刊実話

 しかし、因果応報。一族による血の抗争が義光の晩年にもまた起こる。義光の後継は嫡男の義康に決まっていたのだが、義光とは性格が合わず諍いが絶えなかった。義光は自分に従順な次男の家親を溺愛するようになった。つまりこれは、義光が父や義弟から家督を強奪したときと同じ縮図である。

 「義康のヤツが謀反を起こして、俺も父と同じように強制隠居させられるか、悪くすれば殺されるかもしれない」
 後ろ暗い過去を持つ義光だけに、そういった猜疑心が沸き起こる。しかし、黙って殺されるのを待つ義光ではない。「羽州の狐」と呼ばれた狡猾さと非情さは老いても健在で、先手を打った。慶長7年(1602年)、義光は難癖をつけて義康を廃嫡し、有無をいわせず高野山での蟄居を命じる。そして、義康は高野山へ送られる道中に、多数の鉄砲で武装した暴漢の襲撃を受けて殺害された。義光は事件を調査させて、犯人は庄内地方を最上家に奪われた上杉氏の旧臣・戸井半左衛門と断定。半左衛門は南部領へ逃亡するが、追手を差し向けてこれを討った。死人に口無し…義康襲撃事件はまだ謎の部分が多々あったのだが、主犯が死亡したことですべて闇の中。当然、義光の関与を疑う者も多かった。実弟や一族を次々に殺した前科があるだけに、そう思われても仕方がないだろう。

 一方、兄の死によって山形藩の第二代藩主となった家親だが、義光の死から3年後の元和3年(1617年)に37歳の若さで急死。持病もなく健康であり、死の直前まで猿楽を鑑賞しながら笑い転げていたという。笑いすぎての頓死。それで事件は片付けられてしまったが、こちらも暗殺の噂があった。義光によって廃嫡された嫡男・義康に通じていた家臣たちは、義康の政権発足後は藩の重役として活躍するはずだった。

 しかし、家親が藩主となったことで出世の目が消えて窓際族に。家親を逆恨みしていた者も多かったという。家親の暗殺説を唱える者たちは犯人探しに躍起となり、藩内の人間関係はぎくしゃくしていく。それに後継争いも加わって、ついに藩内を二分する内紛に発展。幕府の仲裁も功を奏することなく争いは激化し、ついに幕閣も堪忍袋の尾が切れた。

「最上家は改易!」
 骨肉の争いも、生き残るためには避けられぬものではある。だが、義光の場合は、あきらかにやり過ぎ。それが後々にまで禍根を残し、お家取り潰しという悲劇を招いた。

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