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俺達のプロレスTHEレジェンド 第52R すべては、この男から始まった!〈力道山〉

 力道山が亡くなったのは1963年12月15日。それから、はや半世紀以上が過ぎた。
 「力道山が日本のプロレスの礎をつくった」とは、あらためて記すまでもない。日本における初のプロレス興行は力道山の以前にも行われていたが、国民的人気を獲得したのは紛れもなく1954年の蔵前国技館3連戦、力道山&木村政彦とシャープ兄弟のタッグマッチ以降のことである。

 当時を伝える文言としては「力道山が大柄のアメリカ人をなぎ倒す姿に、敗戦ショックの中にあった国民は快哉を叫んだ」というのが一般的である。だがしかし、そのころの日本人は決して反米一色でもなかった。
 シャープ兄弟戦が行われたのは2月19日のことだが、同月の1日にはジョー・ディマジオとマリリン・モンローの夫妻が熱烈歓迎の中で来日を果たしている。かつての敵国としての記憶はまだ生々しく残っていたが、同時にアメリカへの憧れも強まりつつあったのだ。
 そうしてみると力道山は「アメリカ文化であるプロレスの世界で互角以上に戦っている」という、今でいえばMLBでの田中将大に対する期待のような意味での人気を得ていた部分も大きかったのではないか。

 その最初の試合の映像を見ると、力道山の攻撃に相手が尻もちをついた際には館内から笑いも起こっていて、そこからは“真剣勝負”というよりも、大衆演劇や映画のような見世物として捉えられていたところがあったこともうかがえる。
 だが、それを許さなかったのは力道山その人だった。

 1954年12月22日、「昭和の巌流島」として大きな注目を集めた木村政彦戦。木村側から自然と生まれたアングルを、力道山は、プロレスを見世物から真剣勝負へと意匠替えするための機会として利用した。
 「日本人最強決定戦」であると同時に「相撲対柔道」という異種格闘技戦の含みも持たせたこの試合−−。“事前の申し合わせで引き分けとされていたのを一方的に破って、力道山がセメントを仕掛けた”というのは、もはや定説と言ってもよかろう。
 いつも通りに空手チョップを受けようと胸を張り出した木村は、想定外の頸動脈への一撃に、血へどを吐いてマットに崩れ落ちる…。このセンセーショナルな結末は、ファンのプロレス観を一変させるに十分なものであった。

 以降、日本におけるプロレスはアメリカ的なショービジネスにとどまらない、八百長と真剣勝負との狭間を行き来する特異な進化を遂げることになる。
 ガチンコ好きな日本人観客の嗜好を汲み取った力道山の見事な戦略であったとも言えよう。

 そんな力道山の人気が頂点を極めたのは1957年、時のNWA王者ルー・テーズとの東京-大阪2連戦。この試合は「世界最高峰に挑戦」というスポーツライクな意味付けがなされ、観客もそれを大いに支持した。
 結果は東京でフルタイムのドロー、大阪ではそれぞれ得意技のバックドロップと空手チョップで1本ずつ取り合って、3本目はエアプレーンスピンの体勢から両者リング外に落ちての引き分け。それでも、時に小ずるい反則を交えるテーズに対し、互角以上の戦いぶりを見せたことで、力道山は完全に時代のヒーローとなった。

 こうしてみると、やはり観客は打倒米国の勧善懲悪というよりも、日本から世界に挑戦する姿に惹かれていたようだ。しかし一方でテーズ戦のころまでのプロレスは、テレビ中継では特別試合のみの生放送というスタイルが取られていて、そのときには人気沸騰となるもののすぐに沈静化することの繰り返しでもあった。
 1958年には、大学球界のスター長嶋茂雄の巨人入団でプロ野球が一気に注目を集めたこともあり、プロレスは一般観衆の視野から外れつつあった。そこで人気回復のために打ち出されたのがワールドリーグ戦である。各国代表の総当たり戦で優勝を決めるという興行スタイルによって、連続性のあるストーリーを持ち込むことに成功し、このときより日本テレビ金曜8時の定期放送も始まった。

 真剣勝負のテイストに異種格闘技戦、興行やテレビ中継のスタイルまで。力道山の生み出した“日本式のプロレス”は、今時点まで脈々と受け継がれている。

〈力道山〉
 日本名/百田光浩、朝鮮名/金信洛(キム・シルラク)。1924年、日本併合時代の北朝鮮に生まれる。'40年、スカウトを受け大相撲入り。関脇まで昇進するも'50年に廃業。プロレスに転身し国民的スターとなる。'63年、ナイトクラブで刺されたことにより死去。享年39。

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