search
とじる
トップ > スポーツ > 俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈山下泰裕 負けなしの美学〉

俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈山下泰裕 負けなしの美学〉

 山下泰裕の名勝負というときに、多くの人がまず思い浮かべるのが1984年ロサンゼルス五輪柔道無差別級決勝、エジプトのモハメド・ラシュワンとの一戦であろう。そして、この試合に対する大方の記憶としては「右ふくらはぎに肉離れを起こし、脚を引きずりながら決勝の舞台に上がった山下。しかしラシュワンは、その負傷箇所を狙うことをよしとせず、正々堂々と勝負に挑んだ」というものではないか。

 試合翌日にも、以下のように報じられている。
 −−ラシュワンは「ヤマシタが右足をけがしたのがわかっていたので、彼の左側へ技を仕掛けた」と振り返った。「なぜ、痛めた足の方を攻めなかったのか?」の質問にも「それは私の信念に反する。そんなにまでして勝ちたくなかった」と爽やかに胸を張った−−(産経新聞)
 他の報道でも同様で、これは“美談”として長く伝えられることにもなった。同年、ラシュワンはこれにより『国際フェアプレー賞』も受賞している。

 だが後日、山下が「右脚を攻めてこなかったというのは事実と異なる」と語っていたことは、あまり知られていない。
 もちろん「正々堂々と勝負してきた」と認めた上のことではあるのだが、山下のラシュワンへの評価は「相手の弱ったところを攻めてこそ勝負師」というもので、巷間伝わる印象とは大きく趣を異にしている。

 では、実際にはどうだったか。
 試合開始早々、ラシュワンは山下の右脚を払いに出ている。そこから左払い腰に出ようとしたところを山下が押し潰して寝技に入り、横四方固めで一本勝ち。
 時間にしてわずか1分5秒。これがロス五輪決勝の全てである。
 山下の言うように、確かにラシュワンは右脚を攻めている。

 ラシュワンが嘘をついたのか−−。しかし、それも違うのである。
 「この試合に際して、ラシュワンへのコーチからの指示は“最初の1分間は自分から攻めるな”というものでした。持久戦にしてまず山下の故障箇所に負担を与えようというのがゲームプランだったのです。しかしラシュワンはその指示に従わず、最初から攻めに出ました」(スポーツ紙記者)

 まずこの点において、山下の弱点に付け込もうという意識がラシュワンにはなかったとわかる。
 「さらに言うと、最初に出した右の脚払いはあくまでもフェイントであって、そこからの左払い腰がこの試合でのラシュワンの勝負手でした。しかし、本来得意だったのは右払い腰。その意味でも“山下の右脚を攻めなかった”という言葉に嘘はなかったのです」(同・記者)

 同じ柔道家であれば、山下もそのあたりには気付きそうなものだが、それがなぜ「右を攻められた」という認識になったのか。
 「それは山下が桁外れの天才だからじゃないでしょうか」(同)

 引退までに公式戦203連勝(引き分け7)、対外国人選手無敗という圧倒的な強さを誇った山下。そんな“超人”からしてみれば、相手との駆け引きのために持久戦に持ち込もうだとか、フェイントを仕掛けようなどという常人並みの発想は無縁のこと。策を弄さずに己の力を出し切ることこそが、一番の勝利への近道だったのだ。
 それだから、前述したラシュワン側の戦略にも思いが至らなかった、ということは十分に考えられる。

 高校のころまでは相手とのあまりの実力差からまず寝技にまで至ることがなく、そのため、まともに取り組んでこなかったという。それが本気で練習を始めると、すぐに“寝技のエキスパート”に上り詰めてしまう。
 その寝技を使い始めたのも「投げ技で一本勝ちを狙えば隙が生まれるかもしれず、より安全に勝つために」という理由からだった。
 山下にとって勝つことは当然。どれだけ取りこぼしをなくすかということを考えていたわけで、他の選手とはそもそもの次元が違ったのである。

 その温厚で誠実そうな顔付きや真摯な性格から「努力の人」とも思われがちだがとんでもない。不世出の大天才であったことが、このラシュワンとの一戦からも見えてくるのである。

スポーツ→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

スポーツ→

もっと見る→

注目タグ