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ケイリン徒然草 “戦前そのもの”でも味があった取手競輪場

 通信機器の発達はまさに驚くべきものがある。競輪記者の仕事を始めて取手競輪の前検日にメンバー送りに行ったとき、今では信じられないような話が残っている。

 当時はファックスもメールもない。電話で送稿するのだが、当時の取手町の通信状況はまさに、戦後20年たっても戦前そのものだった。
 電話がまだ磁石式なのだ。ガラガラとハンドルを回して外線につなぎ、市外電話局の通話担当女性を呼び出す。「東京の何番」と呼び出すのだが、時には話し中で呼び出しが出来ない。
 呼び出してメンバーを送り始めてもいちいち名前の解説をして送稿するから時間がかかる。受け手も運動部記者だったりして競輪選手の名前は知らないから大変だ。なかにはいい加減に当て字で間違いなんていうのもしょっちゅうある。信用も何もない。
 それで30分も電話していると途中で交換台からクレームがつく。「早く切って下さい」なんていってくる。
 こっちは早く終わりたいが全レース送るには1時間はかかる。交換台からは5分おきに「断線」の要求がくる。こうなるともうケンカごしだ。
 よくよく聞いてみたら当時の取手からの市外通話回線は3本しかなく、しかも土浦の電話局を通すというのだから、ひどいものだった。
 開催期間中には定時通話があった。その時間しか市外は掛けられないから、その間は成績も送れない。今からすればウソみたいな話だが、それほど地方の電話事情はお粗末だった。
 何年かたって改善されて良くなったが、ファックスが出来るまでは、各社とも原稿は持ち帰りで、朝刊紙なんか遅くても8時ごろには帰社しないと締め切り時間に間に合わない。
 ところが、帰りの電車時間待ちで仲間博打が始まる。もう熱くなっていつまでも収まらない。当時は10レースで競走は終わりだから「11レースをやろう」ということになるのだ。
 マージャン、花札、さいころ博打のチンチロリンが大流行した時代だから、博打に手を出さない人は「変人」と思われたくらいだ。
 どこからかどんぶりとさいころが3個出てきて博打が始まる。
 いまのようにゲームもなければネットもない時代だ。競輪場の記者席も掘っ立て小屋でテレビもなければ、エアコンもない。まさに半分はならずものみたいな生活だった。
 それでも取手にはうまい米と味噌汁、たくあんがあった。俗にいう「銀シャリ」にたくあんがうまかった。仕事は手間が掛かるし、交通の便も現在から考えると不便だったが、取手に取材に行くのは本当に楽しみだった。粗食の時代だったが、いまだにあの味は忘れられない。
 当時は500人くらいしか入場しない時代だが、それだけに競輪が本当に好きなファンが集まった。

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