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俺達のプロレスTHEレジェンド 第46R 比類なきエンターテイナー〈天龍源一郎〉

 天龍源一郎の戦歴を振り返ったとき、その対戦相手や参戦団体の多彩さにはあらためて驚かされる。
 馬場と猪木の2大巨頭をはじめとして三銃士に四天王、ハッスルでは芸人のHG&RGとも肌を合わせ、女子の神取忍とまでタイマンを張っている。DDT系を手始めにインディー団体にも多数参戦し、2008年には初代タイガーマスクとも初顔合わせを果たした。
 海外まで含めれば武藤敬司には一歩譲るだろうが、こと国内における活躍の幅広さでは他に比肩する選手はいない。同世代の主だった選手で対戦がないのは前田日明ぐらいのものだろう。

 無骨な外見と、グーパンチやサッカーボールキックで攻め立てる強直な試合ぶりから、気難しい職人肌との印象を持たれがちだが、実は日本のトップクラスの中では、プロレスのエンターテインメント性を最も表現してきたレスラーだといえよう。
 「自著でも書いているように“今日を精一杯生きなければ明日は来ない”が天龍のモットーであり、その言葉通りに、どんなオファーにも真剣に取り組んできた。エンタメ色の濃いハッスルへの参戦時にも、決してバイト気分などではなく、最後までその方向性を全うしようとしていました」(プロレス記者)

 大相撲という勝負の世界からプロレスへ転向して、日本デビューの前にアメリカ修業で“興行としてのプロレス”を学んだことの影響もあるのだろう。
 全日本時代、「地方大会でも手抜き試合をしない」を体現する阿修羅原との『龍原砲』での激闘、いわゆる“天龍革命”にしても、勝負性を追求することは本意ではなく、まず「長州ジャパンプロ勢の離脱によって冷めた空気を変えたい」というファン目線からのサービス精神があってのことだった。

 “顔面に靴ヒモの跡がつくほど”蹴り飛ばした輪島との闘いについても、後に天龍自身が「プロレスのスゴさと横綱の頑丈さを伝えたかった」と述懐している。
 「ファンの目は常に意識していて、例えば“飲み屋で居合わせた初見のファンの分まで会計を済ませた”という逸話は天龍の豪快さを表しているようですが、単にそれだけじゃない。かつて天龍の経営していた寿司店にマスコミなど関係者が行くと高級店並みの金額をしっかり取られたそうで、つまり本来から気前がいいわけではなく、ファンの前ではあえてそのように振る舞っていたというのが真相です」(同・記者)

 そんな高いプロ意識から還暦を過ぎてもなお“一戦入魂”を貫く天龍だが、それが唯一揺らいだ試合があった。1990年4月19日、横浜文化体育館。SWS移籍直前に行われたジャンボ鶴田戦だ。
 「後に天龍は『このとき初めて試合中に負けてもイイやという気持ちがよぎった』と語っています」(同)
 もう全日を辞めるという意識もあり、バックドロップ・ホールドによる完全なピンフォール負けを喫してしまう。それまで負けても何かしらの爪痕を残してきた天龍らしからぬ試合であった。

 この敗戦は後に大きなツケを残す。
 “最後に鶴田にピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?”と語ったのは上田馬之助だが、まさにこの言葉の通り。
 「週刊プロレスによるバッシングがSWS崩壊の原因のようにいわれますが、それよりもファンがあの時点での天龍に魅力を感じなかったということの方が大きかったのでは?」(プロレスライター)

 鶴田に完敗した天龍がエースの団体では物足りない。同じ金を払うなら、勝った鶴田の方がいいという観客心理は想像に難くない。
 ましてやファンがそれまで快哉を叫んでいたのはエースの鶴田や横綱ブランドの輪島に食って掛かる姿に対してなのである。これといってライバルのいないSWSでトップに立つ天龍に、応援のしがいを感じなくとも仕方あるまい。

 それでも、SWSの崩壊後も腐らなかったのが男・天龍の真骨頂だ。1994年には東京ドームでの猪木とのシングル戦で勝利を収め“馬場と猪木の両者からピンフォールを奪った唯一の日本人レスラー”という勲章を得た。
 多種多様な激闘を繰り広げ、一枚看板として日本プロレス史にしっかりとその名を刻み込んで見せたのだった。

〈天龍源一郎〉
 1950年、福井県出身。中学入学後にスカウトを受け二所ノ関部屋に入門。最高位は西前頭筆頭。'76年、全日本プロレス入りし、ジャンボ鶴田のライバルとして活躍。SWS移籍、WAR旗揚げを経て、現在は自主興行『天龍プロジェクト』を主催している。

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