「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として、'74年度版のギネスブックに掲載されたアンドレ・ザ・ジャイアント。
当時の為替レートは1ドル300円前後、円換算で1億2000万円と聞けばさほどの額とは感じられないかもしれないが、しかし「年俸10万ドル超が一流メジャーリーガーの証し」とされた時代のことである。
アンドレがプロレス界を超えた超一流であったことに間違いはない。この前年に、リングネームを以前のモンスター・ロシモフから改名し、WWWF(のちWWF、現WWE)プロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約したアンドレは、それから一気に人気と知名度を上げていったことになる。
大ブレイクの裏には、ビンスの独特なマネジメント法があった。アンドレを自分の団体の専属とせず、積極的に世界各地を転戦させたのだ。
「一つのリングに上がり続ければ、いくら怪物でも希少性が薄れていく。ならば他団体のリングに派遣して、そのブッキング料で稼ごうというわけです」(プロレスライター)
その結果、やはり'74年からアンドレは定期的に新日本プロレスへ参戦することとなった。
「ただ、日本ではヒール役であり、アンドレがベビーフェイスとして世界的に人気だったと聞いても、あまり実感の湧かないファンが多いのでは?」(同)
晩年、全日本プロレスに参戦したアンドレは、ジャイアント馬場のパートナーというベビー役であったが、全盛期の動きとは程遠く、日本のファンからすると、アンドレが善玉ヒーローとして活躍するイメージはなかなかつかみ難い。
「バトルロイヤルやハンディキャップマッチで、圧倒的な強さを見せつけるというのが、善玉アンドレの一つの典型。あるいは、ある団体が強大な敵に襲われ、従来のエースだけではとても歯が立たないところにアンドレが現れる。強敵を倒すための最終兵器的な助っ人というわけです」(同)
マクガイア兄弟やグレート・アントニオのように、自分勝手に暴れ回るだけの巨漢怪奇派レスラーとは異なり、動ける上にレスリングの技術もあるのがアンドレ最大の強み。相手との攻防ができて試合をつくれるから、ストーリーも組みやすい。
アンドレを招聘する団体からすれば、世界的なVIPということもあり、基本的に負け役に回すことはない。たとえ負けるにしても、リングアウトや反則などのアクシデント的なものに限られていた。
そんな全盛時のアンドレから唯一ギブアップを奪って勝利したのが、アントニオ猪木であった。
WWFに定着して以降はフォール負けも普通のことになったし、モンスター・ロシモフ時代には、カール・ゴッチがジャーマン・スープレックスで3本勝負のうちの1本を奪っているが、それらはいずれも全盛時とは時期が異なる(ブルーザー・ブロディとローラン・ボックにそれぞれ敗れたとする説もあるが、非公式のもので事実確認はできていない)。
そんな中にあっての猪木の勝利は、まさに偉業といえよう。では、なぜ勝てたのか。
「日本でヒール役だったというのが大きな理由の一つ。アンドレ自身、他国での扱いと異なる悪役を楽しんでいる節がありました」(スポーツ紙記者)
ジャイアント・マシンのマスクを気に入ってノリノリでかぶったのも、日本での試合をエンジョイしていたことの表れで、しょせん極東の地のこと、という気安さもあったのだろう。
'86年6月17日のIWGP公式リーグ戦。試合中、コーナーポストの金具で負傷したアンドレの左肩を、猪木はアームブリーカーや連発ストンピングで集中攻撃。延髄斬りで巨体を倒すと、その左肩にまたがって腕固めを極め、耐えに耐えたアンドレがついにギブアップの声を発するという、猪木の完勝劇であった。
“無敗”のアンドレがこれほどの負け方を受け入れた裏には、当然、猪木への敬意もあっただろうが、他にもさまざまな事情が重なっていた。
「まず、直近のシングル対決ではアンドレが猪木にピンフォール勝ちしており、この負けで“行って来い”というのはあったでしょう。また、猪木はこのリーグ戦の序盤、写真誌に不倫現場を撮られてケジメの丸坊主にしていた。汚名返上のためにも劇的な勝ち方が必要でした」(同)
この試合と同年の4月29日、アンドレは前田日明との伝説の不穏試合で実質的な敗戦を喫しており、猪木としてはそれを越える完勝を望むところも当然あっただろう。
さらに、アンドレはWWFの世界戦略に専念するため、新日参戦はこれが最後と決まっていて、だからこそ“完全決着を”という伏線もあった。
勝敗にさまざまな事情が複雑に絡み合う、これもプロレスの味わい深さの一つと言えようか。