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俺達のプロレスTHEレジェンド 第42R 昭和プロレスを創った“神様”〈カール・ゴッチ〉

 1971年当時、“プロレスの神様”は何とハワイで清掃員として働いていた。このときの年齢は40代半ば。既に全盛期を過ぎていたとはいえ、隠居するにはまだ早い。
 そんな神様をリングに呼び戻したのは、国際プロレスの吉原功社長だった。同団体で売り出し中だったビル・ロビンソンの超絶テクニックに対応できる所属選手がいなかったために、その対抗馬としてゴッチを招聘したのだ。
 そんな期待に応え、第3回IWAワールド・シリーズに参戦したゴッチは、ロビンソンとの5度の対戦において華麗な欧州式レスリングの技の応酬を披露し(結果はすべて時間切れ引き分け)、さらにはモンスター・ロシモフ…後のアンドレ・ザ・ジャイアントにジャーマンスープレックスを決めるという伝説も残した。

 それほどの実力を持つゴッチが、なぜ一時的にもリングを離れることになったのか。
 「最大の要因はルー・テーズとの一件ではないでしょうか」(プロレス研究家)

 '63年から'64年にかけて、ゴッチはテーズの持つNWA王座に都合9度挑戦しているが、その6戦目、ゴッチはバックドロップを仕掛けられた際に全体重を浴びせかけて、テーズに肋骨骨折の重傷を負わせている。
 この試合自体は(事前のブック通りに?)テーズがダブルリストロックで勝利を収め、また試合後にはゴッチが「つい本気になってしまった」と正直に謝罪をしたこともあり、少なくとも表面上は大きな問題とはならなかった。その後も両者のタイトル戦が組まれたことからも、遺恨はなかったと見てよかろう。

 ただ、いくら選手同士が納得しても、プロモーターとなると話は違う。「大事なチャンピオンにケガをさせるような選手は怖くて使えない」となるのは仕方のないところだ。
 そのためゴッチはテーズとの一連のタイトル戦を終えるとNWAを離れ、日本に活路を見出そうとする。
 「'68年には日本に移住までして、日本プロレスの若手のコーチ役に就任しています。ただ、当時エースのジャイアント馬場のスケールの大きな試合スタイルとテクニック主体のゴッチでは相性が悪く、試合で重用されることはなかった。その以前の来日で、いったんインターナショナル王座への挑戦が決まりながらゴッチの負傷のため中止になっていますが、この再戦が行われることもありませんでした」(同・研究家)

 そんな冷遇もあって選手生活に見切りをつけ、冒頭の清掃員ということになるわけだが、しかし日プロでのコーチ業という裏方仕事が“神様”としての復活につながることになる。国際プロレスへの参戦の後、新たに旗揚げした新日本プロレスが、かつて猪木に卍固めを授けた師匠格であるゴッチを大々的に売り出したのだ。
 「もちろんそのテクニックへの信奉はあったのでしょうが、それ以上に、目玉の外国人選手のいなかった新日にとっての苦肉の策という意味合いが大きかったのではないでしょうか」(同)

 旗揚げ興行、猪木戦の解説では早速、『ゴッチはかつてアメリカで王者になりながら強過ぎて相手がおらず王座返上した』などと“ゴッチ最強神話”を喧伝している。
 「実際にはAWA系のローカル王者になっただけだし、挑戦者が名乗り出なかったなどという事実もない。そもそもテーズの王座に何度も挑戦して勝てなかったのに“無冠の帝王”と呼ぶのもおかしな話です」(同)

 だが、最強神話が宣伝によって作られたものだとしても、そのことはゴッチの実力をおとしめるものではない。テーズもゴッチに対しては「私を最も苦しめた挑戦者」と高く評価をしているし、そうした敬意がなければ、たとえ日本でのこととはいえ“世界最強タッグ”を名乗って同格のチームを組むわけがない。
 そして何より、その教えを受けた面々の顔ぶれだ。
 前田日明、藤原喜明、佐山聡、船木誠勝、鈴木みのる等々…。
 宮本武蔵を敬愛したゴッチは、常在戦場の精神でいまわの際まで自らにトレーニングを課したという。ややもすると日本人でも忘れがちな侍魂が、ゴッチを通じて日本のプロレス界に伝承されたのである。

〈カール・ゴッチ〉
1924年、ベルギー出身。レスリング五輪出場の後、'50年にプロレスデビュー。初来日は'61年の日プロ。以後、国際参戦を経て新日で選手兼ブッカー兼コーチとして活躍する。引退後もゴッチ道場で多くの日本人選手を育成した。2007年死去。享年82。

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