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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈団体存亡を懸けた全面戦争〉

 第2次UWFの分裂後、Uの発展継承を目指す前田日明のリングスや、リアルファイトを志向した船木誠勝らのパンクラスに比べて、田延彦がトップを張るUWFインターナショナルが打ち出した“プロレスの原点回帰”なる理念は、ファンの目にはどこか不明瞭に映っていた。
 「今となっては過度なショーアップを排し、真の意味でのプロフェッショナル・レスリングを目指していたと理解できるし、ルー・テーズを最高顧問に招くなどその方針は一貫していた。しかし、UWFルールのままタッグマッチ形式のダブルバウトを採用したことなどは、辛口のファンから『単に従来のプロレスに戻っただけだろう』と、批判を受けることもありました」(プロレス記者)
 UWFの存在を“進化したプロレス”と信じたファンは、原点回帰=退化と思った訳である。

 北尾光司やスーパー・ベイダーなど、田が折々に話題性十分の好勝負を繰り広げていながら、Uインターに対してどこか冷ややかな視線が付いて回った理由は、それだけではない。
 「下交渉もなされないままに、蝶野正洋が持つNWA王座への挑戦や各団体のトップ選手を招く1億円トーナメントの開催を発表し、結果、実現には至らなかった。これらはただの挑発行為と見なされ、他団体の関係者のみならず、ファンからも反感を買うことになりました」(同)
 ヒクソン道場に乗り込んだ安生洋二が、無残なまでに返り討ちに遭ったり、テレビキャスターや参院選出馬など、田がリング外の活動を精力的に行ったことも、ファンの信頼を損ねる一因となった。

 そんな“プロレス業界の鬼っ子”Uインターと、新日本プロレスが、突如として全面対抗戦の開催を発表したのは、1995年8月のこと。Uインターを離れて新日参戦を決めた山崎一夫の処遇をめぐり、長州と田の電話会談が行われていた中で、激高した長州が10・9東京ドームでの大会開催をぶち上げたのだ。
 後日談で両団体ともに合意済みだったことが明かされているが、この当時としては“犬猿の仲”と目されていた新日とUインターだけに、全面対抗戦がファンや関係者にもたらしたインパクトは絶大だった。
 平日の開催にもかかわらず、チケットは販売と同時に即完売。当時の観客動員記録を一瞬にして塗り替えた。また、Uインター側では、次期エース筆頭の田村潔司や参謀として名をはせた宮戸優光が、この対抗戦に参戦拒否したことも、逆に抗争の生々しさを演出することになった。

 試合当日。ドーム周辺には入りきれなかった大勢のファンが、漏れ聞こえる試合経過に一喜一憂していた。新鋭の垣原賢人が実力者の佐々木健介を破る波乱もあって、新日側の4勝3敗で迎えたメーンイベント。両団体の大将は、武藤敬司と田だった。
 両者は同学年ながら、田が新日入門時期では4年先輩で、Uインターの一枚看板としての実績は文句なし。片や武藤も、この年の5月にIWGP王座を奪取。さらには夏のG1でも優勝を果たし、闘魂三銃士の横並びから一歩抜け出す存在感を示していた。
 ベルトを高々と掲げ、会場を見渡しながら花道を進む武藤は、王者の風格に満ち、ここでも田に遜色はない。殺伐とした対抗戦ムードの中、固い握手で試合開始となった。

 序盤、グラウンドの攻防では、柔道で日本代表クラスだった武藤の寝技が光り、引けを取らないどころかむしろ上。静かな展開の中でも、隙を見てフラッシング・エルボーや頭突きの連打を繰り出すセンスの良さで、観客を沸かせる。
 もちろん、田も打撃や関節技では一日の長があり、ミドルやヒザ蹴りで反撃。しかし、その何度目かの蹴り脚を武藤がつかんだところで、まさかのドラゴン・スクリューが炸裂する。
 それまでは単なるつなぎだった技が、武藤によって必殺技として新たな命を吹き込まれた。田の膝が、妙な方向にグニャリと曲がる。それを機に武藤が足4の字固めに入ると、「これで決めろ!」と新日ファンの大歓声が巻き起こった。
 一度はロープに逃れ、二度目は蹴り脚を取られたところを延髄斬りでかわした田だったが、再三のドラゴン・スクリューから再び4の字を極められると、もうこれを返す力は残っていなかった…。

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