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三島由紀夫没後40年目の憂国忌(2)

 三島はデビュー当時から川端康成と親交が深く、二人の手紙を収録した『川端康成三島由紀夫往復書簡』(新潮社)も出版されている。交流は1945年(昭和20年)に処女小説集を贈呈した三島に川端が礼状を送って以来、三島が死ぬまでの25年間に及んだ。三島はノーベル文学賞を主催するスウェーデン・アカデミーあてに川端の推薦文を書いた。そして川端は1968年(昭和43年)に日本人初のノーベル文学賞を受賞。

 その直後に行われた川端、三島、伊藤整による座談会の貴重映像がNHKアーカイブスにある。「毛唐に僕の文学が分かるとは思えない」として受賞を不服そうにする川端を「そんなことはないですよ、川端さん。これは素晴らしいことです」と三島がなだめるシーンが印象的だ。ちなみに三島は恩師である川端を先生とは呼ばず、さん付けで呼ぶようにしていたそうである。

 三島自身も海外での知名度は高く、もっと長く生きていればノーベル文学賞を受賞していたのではないかとも言われている。しかし川端が受賞した2年後に自決。更に2年後の1972年(昭和47年)4月16日、川端は神奈川県逗子市の仕事部屋でガス自殺により世を去った。まるで三島の後を追うかのようにして。

 三島の自決は、遺作『豊饒の海』を完成させるためだったとも言われている。病気や事故により他界した作家の遺稿なら未完であることが常だが、三島は大長編『豊饒の海』第四巻「天人五衰」を書きあげてから事に及んだ。『豊饒の海』は各巻ごとに主人公が変わる。前の巻の主人公は死に、次の巻で別の主人公として転生するからだ。しかし最終巻の主人公だけは死ななかった。そのかわりに作者が死んだ。

 全ては作者の計画通り。今風にいえば小説が現実に飛び出すメディアミックスだったのである。読者がその事実を知ることになるのは、遺作が公開されて以降だったことになるから、最後のネタばらしは小説が担うことになる。なお『豊饒の海』の主人公達は20歳で死ぬ運命だったが、三島は当時45歳。これでは計算が合わないが、彼と共に死んだ盾の会学生長・森田必勝は25歳だったから、二人の年齢差がちょうど20歳になる。森田と心中することも最初から計画されていたことだったらしい。

※三島由紀夫没後40年目の憂国忌(3)につづく(工藤伸一)

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