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俺達のプロレスTHEレジェンド 第16R 類稀なるプロレスセンスの持ち主〈藤波辰爾〉

 藤波辰爾が昭和レジェンドレスラーのひとりであることは間違いない。
 では、その藤波の全盛期がいつ頃で、ベストバウトはどの試合か−−そうなった途端に議論百出。ファンの間でも大きく意見が異なるのではないか。
 「ジュニアヘビー王者時代こそが至高」
 「いや、長州との名勝負数え唄だろう」
 「師匠・猪木超えを果たしたIWGPタッグ決勝だ」

 他にもNWA世界ヘビー級王座の戴冠やG1クライマックス制覇等々あって、どれか一つを選ぶとなると、これがなかなか難しい。だが、一つを選べないということは、逆に言えば、際立って「これ!」と特筆するべきエピソードを欠くということでもある。
 「ライバルの長州などと比べたとき、瞬間的な話題性で見劣りする部分は確かにあったでしょう。だけど、それこそがレスラー・藤波の特性であり強みなのです」(プロレス誌記者)

 どういうことか。
 「プロレスにおいて“相手の力を引き出す”というのは大切な技量で、リック・フレアーやニック・ボックウィンクルなど、歴代の名王者といわれるレスラーたちはそうやって長年トップを張り続けてきたわけです。そして藤波は、それと同じことをベビーフェースとして続けてきたんですね」(同・記者)

 王者時代のフレアーやニックは、時に反則を駆使するなどヒール役として挑戦者の引き立て役を務めた。その結果、試合自体は盛り上がっても、フレアーたちへのファンの評価は“ダーティーチャンプ”というものになりがちであった。
 また、これが猪木の場合だと、「相手の9の力を引き出して10の力で勝つ」という『風車の理論』にあるように、相手を引き立てつつも最後のオイシイところはすべて主役の猪木が独占することになる。
 ところが藤波は、あくまでも正統派として戦いながら自分よりも相手を輝かせ、それでいて脇役に甘んじることなく、自身もトップの座に居続けたのだ。
 「そんなレスラーは古今東西を見渡しても、藤波しか思い当たりません」(同)

 長州力との一連の戦いはもちろん、UWFとの対抗戦では前田日明との大流血戦で“前田株高騰”に貢献した。IWGP王座を巡る戦いではビッグバン・ベイダーの凄味を際立たせ、G1クライマックス初優勝時の決勝でも、評価を上げたのはむしろ準優勝の馳浩の方だった。
 勝敗を超えたところで好勝負を提供し続けてきたからこそトップであり続けたわけだが、決して“常勝”ではなかったために、藤波の力量を低く見積もる声も少なくない。
 例えばミスター高橋は、その著書等において、長州との比較で「藤波は弱い」と断言している。恐らくはレスラー同士の間でも、藤波を評価しない向きがあったのだろう。

 エル・カネックがWWFジュニアヘビー級選手権試合直前に帰国してしまった“敵前逃亡事件”や、ブルーザー・ブロディによるIWGPタッグリーグ戦決勝のボイコットも、原因の一つとして「藤波に負けるのはNO」という意思があったのではないか、とも囁かれた。そのブロディのドタキャンを受けて代役で試合に臨んだ猪木も、そこでは藤波にピンフォール負けしたが、それはあくまでも「ブロディ不在のアクシデントをリカバーするため」のこと。正式なシングル戦においては、最後の最後まで“猪木超え”を果たすことができなかった。
 1988年、藤波は控室で唐突に前髪を切りながら「ベイダーとのシングル戦実現」=“世代交代”を猪木に直訴し、IWGP王座を奪取。ついに『飛龍革命』を成就させた。しかし、その藤波に挑戦者として挑む形となった猪木は、結局“敗戦(世代交代)”を受け入れなかったのだ。試合自体の内容はともかく、結果は60分のフルタイムドローであった。
 一方で猪木は、長州に対してはシングル戦で勝ちを譲っているのだから、そこのところの差は大きい。

 とはいえ、ドラゴン・スクリューに新たな息吹を与えた武藤敬司や、藤波フリークを公言してはばからない棚橋弘至など、藤波を評価する声が多いのもまた事実。近年その評価はさらに高まりそうな気配である。

〈藤波辰爾〉
 1953年大分県出身。'70年、日本プロレス入門。'72年、アントニオ猪木の新日本プロレス旗揚げに参加。'99年、新日社長に就任(2004年辞任)。現在は『ドラディション』に所属。旧リングネームは本名でもある藤浪辰巳。

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