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俺達のプロレスTHEレジェンド 第31R 日本式プロレスを創った革命戦士〈長州力〉

 長州力が日本マット界にもたらした影響はとてつもなく大きい。
 「藤波、俺はおまえのかませ犬じゃねえ」(実際は長州本人の弁ではない)から始まった“名勝負数え唄”以降、維新軍として新日、全日を股にかけての闘いを繰り広げて、力道山以来の「日本人対外国人」という基本構図を書き換えてみせた。
 アメリカ直輸入のプロレスを売りにしていた馬場全日までが、後に四天王プロレスを許容することになったのも、長州のもたらした日本人対決人気の影響抜きには考えられない。また、長州の闘う模様は「善玉対悪玉」という概念さえも薄れさせていった。

 全日参戦時に「イデオロギー対決」と話したように、長州は反体制的な立場を取りながらも決して旧来ヒールのような反則技を使うことはなく、そのため、むしろ観客の支持は“現状改革派”である長州の側へと集まることにもなった。
 そうして善悪の区別のない日本人対決が当たり前になると、互いに手の内を知る同士のファイトは当然、外国人レスラーとの試合よりもスイングし、それが長州流のハイスパートレスリングを成立させることにもなった。
 以後、日本のマット界においては「良い試合を見せる」ことが「面白いストーリーを紡ぐ」ことよりも重要視されることになる。言うなれば、プロレスにおいては必須だったはずの“アングル”の否定だ。

 そんな長州の思想が色濃く表れたのが、自身の団体であるWJプロレスの旗揚げシリーズ。ここで長州は天龍源一郎とのシングル6連戦を組んでみせた。サイドストーリーに頼らず、リング上の試合だけで観客を魅了するのがWJのスタイルだ、という決意の表れであった(現実には3戦目を終えたところで長州が自らの不調を訴えたことにより、以後の対戦は中止となった)。
 「プロレス的なストーリーを重視していなかったからこそ、長州が現場監督で仕切っていたころの新日において、通常シリーズとは全く別枠のG1クライマックスを立ち上げることもできた。団体の看板であるはずのIWGPチャンピオンでも関係なく負けブックを呑ませるなんて、それまでのプロレス界の常識では考えられなかったことです」(プロレスライター)

 プロレス的常識にこだわらないからこそ、ファンからすればその予想外の結末が新鮮に映り、G1クライマックスは新日の夏の風物詩として定着することにもなった。
 「そりゃあプロレスですから全くアングルがないわけじゃないけれど、長州のそれは生身の感情から発したものという点が特徴的です。藤波との一連の抗争は、藤波を猪木の後継者とする既定路線に反発したもの。抗争の始まる直前、メキシコ遠征していたときには、くすぶっている自身の将来を悲観して引退も考えていたそうですから、そりゃあ本気度が違います。維新軍やジャパンプロレスは文字通り自身の生き残りを賭けた闘いだったわけだし、その後、新日とUWFインターナショナルとの対抗戦にしても、根底には本気の部分があった。それ以前に高田延彦が蝶野正洋のNWA王座に絡んできた際には、挑戦状を持参した宮戸優光と安生洋二、代表の鈴木健氏に対して『あいつらが死んだら墓に糞をぶっかけてやる』と言ったように、本気で団体ごとつぶしてやろうという気持ちがあったからこそ、あれだけの盛り上がりとなったのです」(同)

 Uインターとの対抗戦では他にも「あいつらはプロレスの“中”でやってるのか? それとも“外”でやってるのか? “中”だろう」と、あくまでもUWFがプロレス的枠組みの中で試合を行っていることを指摘する“シュート発言”もかましている。
 また長州小力のものまねで広く知れ渡った「キレてないですよ。俺をキレさせたら大したもんだ」というセリフも、この対抗戦の中で生まれている。安生洋二との殺伐とした試合に勝利した後、記者からの“キレてましたね”との質問を受けての返答であった。
 本音の込められた発言だから、コメントの一つひとつがファンの心に届く。限りなくノンフィクションに近いという意味では、長州のプロレスこそが“リアルファイト”であったと言えるのかもしれない。

〈長州力〉
 1951年、山口県出身。大学卒業と同時に新日プロ入門。当初のリングネームは吉田光雄。その後、公募で長州力に改名。ジャパンプロレス旗揚げ、全日プロ参戦、WJ旗揚げを経て、現在もさまざまな団体に参戦している。

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