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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈プロレス夢のオールスター戦〉

 日本のプロレス界と切っても切れないのが東京スポーツ。最近こそ記事掲載面ではメーンを譲ったが、八百長暴露があろうが冬の時代を迎えようが、プロレス界を応援し続ける姿勢は創刊以来ずっと変わらない。
 1979年8月26日、日本武道館で開催された『プロレス夢のオールスター戦』も、東スポ創立20周年のメモリアルイベントだからこそ実現したものだった。
 「当時の東スポ・井上博社長が先頭に立って、何度もジャイアント馬場、アントニオ猪木らと交渉にあたる努力もあったが、最終的に開催が合意に至ったのは両者に“東スポのためなら”との気持ちがあったからです」(スポーツ紙記者)

 今では団体間の対抗戦や交流戦もそう珍しいものではないが、当時は事情がまったく異なる。
 「現在では対抗戦と言いながらも、本音の部分では互いに協力して盛り上げようという考えがある。しかし、80年代までの全日と新日は、共に本気で相手の団体を潰そうとしていた。そんな両者が同じリングに立つことが、いかに奇跡的なことだったか」(同)

 とはいえ、オールスター戦でファンが望むのは、やはり両団体のトップである馬場と猪木のシングル対決。間に立った東スポもそれを目標に交渉にあたったが、馬場は一貫して首を縦に振ることはなかった。
 「もし馬場と猪木が闘ったとして、事前にどんな合意があったとしても猪木がそれを守るとは思えない。勝ち負けはそれぞれ団体の存亡にもかかわるだけに、受けられなかったのは仕方がありません。もし直接対決を強いたときには、馬場の参戦拒否も十分にあり得ました」(同)

 シングルどころかタッグでも、馬場と猪木が対戦しないことにガッカリしたファンも少なくなかったが、それでも無敵を誇った“BI砲”の復活は、日本プロレス以来8年ぶり。徐々に期待は高まり、当日の日本武道館周辺は、入場できないファンが層をなして取り囲むほどだった。
 全日と新日の純粋な直接対決は、坂口征二vsロッキー羽田の1試合のみ。それも副将格の坂口と中堅の羽田とあって殺伐とした空気は薄く、お祭りムードの中で試合は進む。そうして迎えたメーンイベント。BI砲と対峙するのはアブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンの団体の垣根を越えた“狂悪コンビ”だ。

 倍賞鉄夫リングアナの呼び込みで『吹けよ風、呼べよ嵐』が流れると、期せずして館内にブッチャーコールが巻き起こり、ヒールのブッチャーが大歓声でリングに迎えられる。続いてシンがいつも通りに観客席をねり歩くと、いよいよ千両役者の登場だ。
 『炎のファイター』に乗った猪木が青のロングタオルに白のガウンで、大トリの馬場がなじみ深い日本テレビのスポーツテーマとオレンジのガウンで入場する。開催宣言を述べる二階堂進コミッショナー(のちの自民党副総裁)の横には、PWF会長のロード・ブレアース。メーンレフェリーはジョー樋口、サブレフェリーはミスター高橋が務めた。

 それぞれの名前がコールされる中で狂悪コンビが暴れ始めると、馬場がシンにチョップを放ち、猪木がブッチャーを場外へ蹴散らしたところで、試合開始のゴングが鳴る。
 序盤から猪木が延髄斬りやコブラツイストの得意技を繰り出せば、馬場も脳天唐竹割り、16文キックを惜しげもなく披露する。狂悪コンビの動きもよく、ブッチャーがジャンピング・エルボードロップを猪木と馬場それぞれに炸裂させれば、シンも2人を場外で引きずり回してみせた。
 「そんな中、猪木はブッチャーをブレーンバスターで投げるなど動きのよさが際立ち、この試合への意気込みは強かった」(同)

 馬場と猪木が揃ってシンにアームブリーカーを仕掛けた場面が、この試合のクライマックス。猪木のピンチを馬場が救う、そんなタッグマッチでのありふれた光景に、観客から歓喜の声が沸き上がった。
 フィニッシュは猪木がシンを逆さ押さえ込みで3カウント。試合時間13分03秒は、ファンにとって長年の思いが凝縮された幸福のひとときであった。

 両雄が並んで勝ち名乗りを受ける中、マイクを取った猪木が「この次、リングで顔を合わせるときは闘うときです」と呼びかけると、馬場も「よし、やろう」と返答。しかし、2人は二度とリング上で交わることはなかった。

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