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「時代」を彩った男と女・あの人は今 元日本ハム監督・上田利治さん

 闘将として日本球界で長年指導力を発揮してきた元日本ハム監督・上田利治さん。阪急、オリックス、日本ハムとのべ20年にも渡り監督業を務めた上田さんは03年、149人目の球界功労者として野球殿堂入りを果たした。73歳となった現在も解説者、評論家活動をするなど野球への情熱は健在だ。

 上田さんは日本球界では異色のキャラだった。まず、選手としては無名ながら監督にまでなるケースは日本球界では珍しい。上田さんは選手として3年間広島カープに在籍していたものの、大きな活躍はないままに引退し指導者の道を歩んだ。もともと、ずば抜けた野球理論の持ち主で、当時の広島・松田恒治オーナーは上田さんを「将来の指導者として入団させた」とまで明言しており、選手としてではなく指導者としての才を買われていたことが伺える。                               
 そのルーツを探ろう。上田さんは昭和12年1月18日、徳島・宍喰町で魚屋の長男として生まれた。「とにかく、小さい頃からしっかり者でした。面倒見がよく、正義感も強く、弱い人を守るという行動が見られました。理不尽なことをする者にはたとえ年上でも真っ向から向かっていくようなこともありましたね」(地元の友人)との証言があるように、監督時代に見せた鉄拳制裁も辞さないほどのリーダーシップと正義感は幼少期から培われてきたものらしい。
 そんな情の厚い上田さんが初めてグローブを手にしたのは小学4年生のとき。父親に買ってもらったそのグローブが上田さんの運命を変えることになった。野球に熱中し、地元海南高校へ進学した後も野球部に所属しキャッチャーとして活躍。3年時にはキャプテンも務めチームをまとめた。当時の友人たちが口を揃えて「真面目で優秀でとにかくいい男だった。人望がありリーダーになるために生まれてきたような人」というように、野球部キャプテンとして活躍する一方、勉強でも常にトップクラスの成績を残し卒業生総代を務めるなど上田さんはまさにミスター・パーフェクトだった。

 大好きな野球を続ける一方でもプロ野球選手になることは考えていなかったという。弁護士になるつもりで、関西大学法学部を一般入試で合格した上田さんは高校時代の実績を買われ大学でも野球を続けることとなり、故・村山実氏(阪神タイガース投手)とバッテリーを組んだ。そして3年連続して全国大会に出場、56年には日本一の栄冠に輝き、関西大学野球部の黄金時代を築いたのだ。    
 それでもプロ入りに関しては全く消極的だったが、広島の松田オーナーの熱心な口説きに応じて59年に入団。キャンプにも六法全書を持ち込んだのは有名な話だ。プロでは選手としては特筆すべき活躍はなかったものの、前述のようにその屈指の野球理論や卓越した指導力を買われていた上田さんは、現役引退後、62年に25歳の若さで広島のコーチに就任した。
 9年間広島のコーチを務めた後の71年、阪急のコーチに就任。74年には37歳の若さで
西本幸雄監督の後任監督に就任した。そして、監督就任2年目に阪急を悲願の日本一に導いた。山田久志、足立光宏の投手陣、盗塁王の福本豊ら、当時のスーパースター達を育て上げ、3年連続して日本一となり名将ぶりを見せ付けた。一方、78年の日本シリーズ・ヤクルトとの最終戦では歴史に残る大抗議をした。ポールに当たってホームランと判定されたヤクルト・大杉の打球をめぐって上田さんは1時間19分もの抗議を繰り広げた。結局、判定は覆らず、ヤクルトに日本一の座を奪われたこの日、上田さんは反対を押し切って自ら監督を辞任した。必死さ、真剣に取り組むことを自ら行動でしめした。

 以後、81年に再び阪急の監督となり84年にリーグ優勝、そしてオリックスや日本ハムを経て99年に監督を退くまでのべ20年間、自身のチームが再下位になったことは1度もない。「上田さんはグランドでは非情に厳しかったが、私服になると放任主義だった。だからこそ選手は裏切るような行動もしなかった。何よりも自らが行動で示した野球への情熱が自分たちにとてつもないパワーを与えてくれた」と、阪急時代に上田さんの下で活躍した選手は言う。誰にも負けないほどの野球愛を持った上田さんが日本球界に残したものは大きい。

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