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【帰ってきたアイドル親衛隊】出て来た瞬間のオーラはハンパ無かったデビル雅美のそばに恐る恐る寄ってみると…

 父親がプロレスが大好きだったことで、私は子供のころから父親の影響で熱狂的なプロレスファンになっていた。当時は新日本プロレスと全日本プロレスと全日本女子プロレスがテレビ放送をやっていた。男子のプロレスは猪木と馬場の団体と言われて人気だったが、このころの女子プロレスはビューティーペア(ジャッキー佐藤・マキ上田)が盛り上がっていた。しかしビューティーペアの引退後は、ミミ萩原などの正統派レスラーやジャガー横田が女子プロレスを支えていた感じだったが、個人的にはこのころに大きな存在感を出してきたデビル雅美に注目するようになっていた。デビル雅美といえば、パワフルで力強い感じであり、時折見せる不敵な笑みが魅力的だった。

 しかしそのころの私は現場へ観に行くことをせずに、ひたすらテレビで観ていただけの在宅ファンにすぎなかった。ようやく腰を上げるキッカケとなったのが、クラッシュギャルズやジャンボ堀・大森ゆかりなどの選手が出てきたころである。1984年1月に後楽園ホールで行われた女子プロレスを観に行くことにした。当時の女子プロレスラーは、レコードデビューしている選手も多くいたので、興行の中で歌うことがお約束だった。この日はデビルが『デビル・命の限り』という曲をリング上で熱唱して、あまりの歌の上手さにビックリした。その曲を聞いて後に、ハードな試合を見せてもらい、ますますデビルの魅力に取りつかれていった。

 試合終了後には、会場前で選手の出待ちをしていたのだが、デビルが出て来た瞬間のオーラはハンパ無かった。近寄りがたい雰囲気だったが、恐る恐るそばに寄るとビックリされたが、リング上とは裏腹に優しく微笑んでくれたのが印象的だった。そこでサインも頂き2ショット写真も撮らせてもらった。これまでの印象とガラッと変わり、良い意味で私の見る目が変わっていった。

 その後はクラッシュギャルズやダンプ松本率いる極悪同盟などの台頭もあり、メインから退く感じになってしまったが、25歳引退制度のあった全日本女子プロレスを退団後はフリーとして活躍するようになった。

 そんなデビルが92年に設立された新団体のJWPの所属になり、同団体に参加することになった。94年頃に縁あって私はJWPでリング設営や売店での販売を手伝っていた。そこでデビルと再会するのだが、当然のように私のことなんて覚えていない。当たり前のことだが、同じ空間にいられることが嬉しかった。ある日、デビルと一緒に売店に立つことがあった。デビルのサイン会があり、そこでの担当が私だったのである。しかしこの時の私は会計を間違えてはいけないとか、お客さんに失礼が無いようにしないといけないとか、集まったファンにデビルとの対面に満足してもらえるように心掛けるだけで精一杯だった。サイン会が終わって最後にデビルが「ありがとね」と言ってくれた一言が今でも忘れられない。

 そのJWPを2000年に離れることになったデビルだが、そこからもフリーのレスラーとして08年まで現役を続けていた。現役を30年も続けた偉大な女子プロレスラーである。引退後は女子プロレスや芸能界に関わることも無く、地元の北九州で漬物屋の店長として働いている。女子プロレスとまったく違う人生を歩んでいるデビルだが、いつか私も北九州に行ってデビルに会いに行きたい気持ちもある。きっと一方的になってしまうが、これまでの私の思い出話しを聞いてもらいたい願望もある。

 でもあくまでも個人的な意見だが、今の生活も良いと思うが、やはり女子プロレスラーの圧倒的な凄さを今の選手に伝えてもらいたい気持ちもあるので、できるなら混沌としている女子プロレスに喝を入れる意味も含めて、女子プロレスに携わって欲しい。

(ブレーメン大島=毎週土曜日に掲載)

【ブレーメン大島】小学生の頃からアイドル現場に通い、高校時代は『夕やけニャンニャン』に素人ながらレギュラーで出演。同番組の「夕ニャン大相撲」では元レスリング部のテクニックを駆使して、暴れまわった。高校卒業後は芸人、プロレスのリングアナウンサー、放送作家として活動。現在は「プロのアイドルヲタク」としてアイドルをメインに取材するほか、かつて広島カープの応援団にも所属していたほどの熱狂的ファンとしての顔や、自称日本で唯一の盆踊りヲタとしての顔を持つことから、全国を飛び回る生活を送っている。最近、気になるアイドルはNMB48の三田麻央。

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