search
とじる
トップ > スポーツ > 俺達のプロレスTHEレジェンド 第11R 日本の戦後文化史にもその名を残す〈ザ・デストロイヤー〉

俺達のプロレスTHEレジェンド 第11R 日本の戦後文化史にもその名を残す〈ザ・デストロイヤー〉

 2月19日は『プロレスの日』。力道山が木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した、日本で初めて本格的なプロレス興行が開催されたことを記念するものである。
 せっかくの記念日でありながら既存団体による派手な関連イベントが行われないのはもったいないように感じるが、「力道山関連は、いまだに利権を主張する人間がいたりして何かと面倒」(スポーツ紙記者)というのでは、うかつに触れられないのも仕方あるまい。

 日本プロレスが分裂崩壊したせいか、力道山時代と馬場・猪木以降では、どこか隔絶された印象もある。力道山の名を聞いたときに、今につながるプロレスの源流ではなく「戦後史のひとコマ」と捉えるプロレスファンも多いだろう。
 そうした日本文化史という観点からしても特筆される“事件”に、テレビ視聴率64%をたたき出した力道山対ザ・デストロイヤー戦がある(1963年5月24日)。これは過去放送されたテレビ番組歴代4位にランクされる数字だ。

 日本初公開となった足4の字固めの鮮烈さと、覆面レスラー初の世界王者という肩書き。アメリカ修行時代の馬場を手玉にとり、師匠・力道山も初対戦で下したその実力は、まさに“白覆面の魔王”であり、一敗地にまみれた力道山のリベンジマッチとなれば注目が集まるのも当然だったといえる。ただ、この試合には少々の裏事情があった。
 「来日直前、デストロイヤーはフレッド・ブラッシーに敗れてWWA王座から陥落していたんです。それでも事前にタイトルマッチとして発表されていたので、王者デストロイヤーに力道山が挑戦するという形で試合は行われましたが、これに力道山が勝ってタイトル奪取というわけにはいかなかった」(プロレス記者)

 試合自体は空手チョップでデストロイヤーの前歯が吹き飛ぶなど大迫力となったが、足4の字をめぐる攻防が8分に及んだところで「レフェリーストップによる無効試合」という、今にして見ればどうにも曖昧な結末となったのは、そうした事情によるものである。
 そんな“因縁”の力道山最後の試合相手となったのも、このデストロイヤーであった。

 場外でのバックドロップという荒業を繰り出して勝利した力道山は、その試合の好評に気を良くしたのか、後日ファイトマネーを受け取りに来たデストロイヤーを飲みに誘ったという。あの“刺殺事件”の起こる12月8日のことだった。
 アメリカでの試合予定があったため誘いを断り帰国したデストロイヤーは、空港に迎えにきた夫人からその報を聞かされたという。
 「もし付き合っていれば、あんなことにはならなかったんじゃないか」とデストロイヤーは述懐している。
 その後、全日本プロレスにおいて、馬場を助ける形で日本陣営に加わったのは、どこか力道山の一件に対するお詫びのような気持ちがあったのかもしれない。

 全日入り以降のデストロイヤーは、ブッチャーと大流血の死闘を繰り広げたり、ミル・マスカラスをはじめとするマスクマンたちとの『覆面世界一決定十番勝負』で全勝を飾ったりはしたが、その一方では試合中に相手をおちょくるようなコミカルな仕草も多々見られるようになり、かつての“魔王”の面影を薄れさせていった。
 すでに40代と全盛期を過ぎていたし、同時期にレギュラー出演した日本テレビのバラエティー番組『うわさのチャンネル』におけるコメディアン的扱いの影響もあっただろう。また、「馬場の軍門に下って日本陣営入りした」というアングルも、“力道山のライバル”としての価値を下げることになった。

 求められるままにヒールもベビーフェースもこなしたデストロイヤーは、どこかプロレスをビジネスライクに捉え過ぎていた面があったのかもしれない。トレードマークの覆面にしても、自ら望んだわけではなく、プロモーターから命じられて他選手の“お下がり”をかぶったものだった。
 だが、それをきっかけに“ジ・インテリジェンス・センセーショナル・ザ・デストロイヤー”として大ブレークした。日本においてもここまで記した通り、さまざまな場面で名を残しているように、正にスターになるべく星の下に生まれたレスラーであった。

〈ザ・デストロイヤー〉
 1930年、アメリカ出身。'63年初来日。足4の字固めを武器に日本プロレスで力道山と死闘を繰り広げる。'73年からは全日本の所属選手に。'79年まで日本勢の助っ人兼コーチ役として活動する。'93年に引退。

スポーツ→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

スポーツ→

もっと見る→

注目タグ