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「時代」を彩った男と女・あの人は今 元バイクレーサー・平忠彦さん

 平忠彦といえば、80年代に活躍しバイクブームを盛り立てた日本を代表するライダーだ。全日本GP5003連覇を筆頭に、鈴鹿8耐優勝などを成し遂げた。また、世界選手権に参戦し日本人ライダーの世界挑戦の扉を開くなどの功績も残した。実力に加え、彫りの深い端正な顔立ちと穏やかな人格も相まって多くのファンを獲得した。

 福島県出身の平は小さい頃からオートバイに親しむ環境にあった。大正生まれの父親と7歳年上の兄がオートバイ好きだったため、自然と平も興味を持ち、オートバイレーサーになることを夢見たという。16歳で免許を取り、母や兄の反対を押し切って76年、19歳で埼玉県上尾市のレーシングチームに所属しロードレースをスタートした。
 当時を知る知人が語る。
 「レースには相当の資金がかかります。彼はご家族が反対する中、レースを続けていくからには資金の援助なんて絶対お願いできないと言ってました。だから、彼はレースをするために一日中働いていましたね。早朝の新聞配達から始まって、昼間は整備、夜はガソリンスタンドと働きづめで資金を稼いでいました。しかもレースで怪我を負ってもそれらのバイトは一切休まないんだから恐れ入りました。意思が強く、自分に厳しく、有言実行の素晴らしい男ですよ。なおかつ、イケメンだし周囲には優しいんですからね」
 そんな苦労した下積み時代を経て、平は徐々に自分の夢をつかんでいった。イナレーシングでレースを始め、メーカーの契約選手になるために1戦1戦に集中して勝つレースにこだわった。79年にはジュニア350クラスで6勝を挙げ、一躍その名を売った。82年には彫りの深い顔立ちと技術が買われ、角川映画「汚れた英雄」で草刈正雄演じる主人公・北野晶夫のレースシーンのスタントも務めた。この頃から着用した赤黒白のアライヘルメットは「タイラレプリカ」として一般にも発売され、爆発的な大ヒットアイテムとなるなど、その人気はとどまるところを知らなかった。

 その後、500クラスに乗るようになり、83年、26歳で念願かなってヤマハと契約しプロのライダーになった。平は何百人いる国際A級ライダーの中から指名してもらった恩を返すためさらにレース環境を整えていき、85年に3年連続500チャンピオンの快挙を達成した。この頃、資生堂「TECH21」のメインキャラクターにも抜擢され、バイクブームをさらに広い世代に知らしめることとなった。86年にはWGP250に降る参戦。最終戦サンマリノGPでは見事に優勝した。87年から89年にかけては、WGP500にフル参戦し、88年にはドキュメンタリー映画「TOP DOG」も制作された。90年には苦節10年の末の悲願の鈴鹿8耐優勝を飾った。
 92年3月、平は35歳で現役引退を決意した。それまでがむしゃらに1位にこだわったレース人生を歩んできた平にとり、年齢とともに落ちる体力は現役生活のピリオドを意味した。周囲の惜しむ声を押し切って平は引退、その後はタイラ・レーシング(株)を設立した。バイクの魅力をたくさんの人に浸透させたいとの思いでライディング・スクールを開催したりレーシングスクール講師をしたり、第二のバイク愛人生を充実させている。04年にはNHK教育テレ氏「趣味悠々」の『中高年のためのらくらくツーリング入門』でも講師を、08年からはワイズギア・レーシングチームの監督も務めている。
 「平さんは現役を引退してもオートバイ業界に恩返しをしたいという気持ちを常に持っている。あれほどの人なのに、バイクの魅力、安全な運転、感覚などをたくさんの人に伝授したいと、気軽にタンデムで生徒たちを乗せて実践でそれらを教えたりしている。とにかく、日本におけるオートバイのマイナスイメージを払拭させて魅力を広めていこうとされてる姿勢と実行力は素晴らしい」(浜松市・男性)

 平自身、80歳になってもオートバイを愛し続けていきたいという。今後はオートバイを知り尽くした平ならではのメーカーを超えたオリジナルマシンを開発することも夢だという。

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