「猪木は、レスラーとしての経験もない人間から見当違いの論評をされることを嫌い、その当時には自らメディアコントロールをしたいという考えでいました。東京スポーツ記者だった永島勝司氏(後の新日取締役)に“新日発信の新聞媒体発行”を持ち掛けるなどもしています。小鉄を解説者にというのも、それと同様の考えからのことです」(プロレスライター)
そうしてみれば、猪木はレスラーとして以上のものを小鉄に求めたのだともいえるし、小鉄もまた、その要望にしっかりと応えてみせた。新聞発行については、アントンハイセルなど別事業への投資がかさんだため実現には至らなかったが、小鉄の解説者転身は上々の結果を果たすことになる。
いかにも謹厳実直で、時にふがいない試合をする選手を厳しく叱咤するその語り口は、テレビの中で繰り広げられる試合に重みを与えた。
「“パイルドライバーはリングの下の鉄骨の通った硬いところを狙って落とす”など、小鉄の解説でプロレスの奥深さを知って、よりディープな新日ファンが育つことになりました」(同・ライター)
レフェリーとしては、決して技量面で優れていたわけではなかったが、生真面目に反則を注意する姿は、これもまた新日のストロングスタイルによく似合っていた。
道場長として数多の選手を育成したこともその大きな実績だ。特に厳しくシゴいたのが後に新日を離脱することになったUWF勢で、中でも前田日明のことは後々まで気に掛けていたという。家族の前でも常にその名前を挙げていたようで、それもあって小鉄の葬儀の際には新日関係者をさておき前田が弔辞を読んでいる。
“ヒザを故障したならスクワットで鍛え直せ”というその指導法は、今の科学的トレーニングの知見からすれば根拠の薄い精神論であったかもしれないが、その下で優れた選手が育ったこともまた事実なのである。
では、選手としてはどうだったかといえば、こちらも決して凡百の類ではなかった。身長170センチと小柄なために一度ならず入門を断られながらも、力道山に直談判をしてその最後の弟子となった。
そうしてデビューを果たした日本プロレス時代、ベストバウトとして挙げられるのが、第11回ワールドリーグ戦における対ゴリラ・モンスーン戦だ。
ボボ・ブラジルと並ぶ外国人エースとして来日したモンスーン。リング上で対峙した小鉄との体格差は、観客からどよめきが起こるほどだった。
だが「中堅どころの小鉄ではとても勝ち目なし」という大方の予測は見事に裏切られる。
モンスーンが必殺のダイビングボディープレスを自爆したところ、体を入れ替えるようにして押さえ込んで3カウント奪取。テレビ中継されたこの試合で、小鉄の歓喜の涙は全国の茶の間に大きな驚きを与えることになった(なお同シリーズでは猪木が初優勝を果たしている)。
「新日ではマクガイア兄弟との大小対決など脇役に甘んじることが多かったけれど、星野勘太郎とのヤマハ・ブラザーズとしては本場アメリカで評判を得た実績もある。中堅選手としての需要はまだまだあったでしょう」(スポーツ紙記者)
小鉄自身も「まだやれる」との気概から自身のトレーニングを欠かすことはなく、現役時代と変わらぬボディーを後年まで維持し続けた。引退後はテレビのバラエティー番組に出演することも多かったが、そのときの小鉄の厚みあるガッシリとした身体は、プロレスラーの凄味を示すアイコンともなった。
リング上からではなくとも、その周辺からプロレスの魅力を伝え続けた小鉄もまた、レジェンドの一人といえるだろう。
〈山本小鉄〉
1941年、横浜市出身。'63年デビュー。星野勘太郎とのタッグ「ヤマハ・ブラザーズ」として人気を得る。'71年、アントニオ猪木に追随して新日旗揚げに奔走。引退後は解説者、レフェリー、コーチとして活躍。2010年死去。享年68。