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俺達のプロレスTHEレジェンド 第33R 黒人レスラーの最高峰!〈ボボ・ブラジル〉

 1970年代、全日本プロレスでは『ブラックパワーシリーズ』なるタイトルの巡業が定期的に組まれていた。今だと黒人差別ともとられかねないネーミングだが、当時としては'68年メキシコ五輪における黒人差別への抗議“ブラックパワー・サリュート”にちなんだものであり、むしろ黒人の強さに対する敬意を表すものだったと言えよう。

 このシリーズで主役を張ったのが、アブドーラ・ザ・ブッチャーとボボ・ブラジルである。
 当初は春にブラジル、夏にブッチャーというように、それぞれがメーンの扱いであったが、最後となった同シリーズではブラジルの年齢的な衰えもあって、主役のブッチャーとそのパートナーのブラジルというポジションに収まることになる。

 「リング上で手渡された花束に食らい付き、試合では反則を幾度となく繰り返す」という怪奇派イメージは、そんな晩年になってからのもので、しかしそれだけではブラジルの本領を見誤ることになる。
 「ブラジルの全盛期は、初来日の'57年から2度目の来日となる'66年のあたりでしょう。このころの映像を見ると、2メートル近い巨体でありながらロープに振った相手の頭越しにリープフロッグで軽々と飛び越えるなど、その姿はまさに全身がバネ。驚異的な跳躍力で飛び上がってココバットを打ち下ろすのだから、必殺技としての説得力も十分です。古い白黒の映像越しにも黒光りする筋肉隆々の身体は、やはり“黒い魔神”の呼び名にふさわしいものがあります」(プロレス研究家)

 第2次世界大戦後間もない、まだ人種差別の色濃く残っていたアメリカにおいて偏見を跳ね除けてトップの座を得たのは、そんなブラジルの実力が認められてのことに違いあるまい。初来日から2度目までの間が10年近く開いたのも、日本に来る暇がないほどに全米各地で引っ張りダコだったことの証明だ。
 その人気と実力は、日本のマット界においても大いに評価を受けることになる。日本プロレス界の至宝であるインターナショナル・ヘビー級王座を2度獲得したのは、三冠ベルトに統一される以前ではブラジルの他にドリー・ファンク・ジュニアしかいない。
 さらにいえば、ドリーの戴冠は王座決定トーナメントと対ブルーザー・ブロディ戦によるものであって、日本人のトップを破ってはいない。
 対してブラジルは、ジャイアント馬場と大木金太郎という当時のトップを下しての王座獲得なのだから、扱いとしてはブラジルの方が上だったとも言えよう。

 '68年、インター王座の連続防衛記録を打ち立てていた馬場を下したブラジル。そのリターンマッチで馬場は、32文ロケット砲の3連発という荒業を繰り出している。'65年の初披露以来、ここ一番の試合でしか使わなかったこの技を3度も出させたことが、すなわちブラジルへの評価の高さの裏付けでもあろう(他に連発はジン・キニスキー戦での2連発のみ)。
 日本において、アメリカと異なりヒールの役回りを演じるのは、当時のプロレスの在り方からして当然のことではあったが、そのときにブラジルは慣れない悪役を真剣にこなす真面目さも持ち合わせていた。
 ザ・デストロイヤーの自伝『マスクを脱いだデストロイヤー』によれば、ブラジルはより悪役らしく振る舞うためのアドバイスをデストロイヤーに求め、そこで提案されたのが、例の花束を噛みちぎるスタイルだったという。

 そんなブラジルにも悩みの種があった。
 「異母弟でハンク・ジェームスというレスラーがいて、何度か来日もしているのだけれど、これがとにかくデクノボウでどうしようもなかった。ブラジルの血縁者とあってアメリカでもそれなりに出場機会は得ていたけれど、ブラジルは何とか独り立ちさせたいと心を砕いていたようだ」(ベテラン記者)

 その弟がアメリカでヒール役として出場する際にブッチャーの世話になったことがあり、そのためブラジルは、日本でブッチャーと組むにあたっては、本来アメリカでははるかに格下のブッチャーの下に付くこともいとわなかったのだともいわれる。
 見た目の厳つさとは裏腹に、とにかく真面目で人のいいレスラーであったのだ。

〈ボボ・ブラジル〉
 1924年、アメリカ出身。ニグロリーグのプロ野球選手を経て、'51年デビュー。'57年、初来日。日本プロレスで力道山と死闘を繰り広げる。'68年、G馬場を破りインターナショナル王座奪取。'98年、脳梗塞により死去。

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