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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(5)

 早川家は江戸時代から東京・京橋の北新堀で桝屋という袋物問屋を営んでいた。明治維新後、経営困難に陥り、明治9(1876)年に日本橋久松町へ移転したものの、久松町の店でも間口(まぐち)4間(けん)、奥行10間(1間は約1.8メートル)あったという。移転前にはさらに大きな店だったことが想像される。

 政吉の代には袋物問屋ではなく、一閑張(いっかんばり)のちゃぶ台を製造販売した。一閑張は、机の木地に布を貼り表面から漆(うるし)をかける。政吉の考案によるもので、彼は一閑張ちゃぶ台の新案特許を取り、第4回内国勧業博覧会で銀賞を受賞したこともある。
 政吉は器用で技術的才能はあったが、応揚(おうよう)な人柄で金銭方面などには、至って淡白だったという。

 花子の実家は藤谷といい、東京・麹町の、やはり老舗の袋物問屋、大和屋だ。藤谷家は大和の出で、江戸時代には袋物問屋とは別に、肥後の細川藩をはじめ大名諸家に公金の御用達(今日の金融)を務め、苗字帯刀を許されていた。
 勝気で何事にも積極的な花子は一家の推進力で、政吉はよく冗談に「ここの家は女房が主で亭主が従だな」と言ったという。才色兼備、そしてハイカラでもあったが、ミシン縫製業を始めると商才も発揮する。
 当時、まだ非常に珍しかったミシンによる縫製業を花子がいち早く事業化した背景には、日本の総合商社の草分け、森村市左衛門との関わりがある。花子の実家、大和屋は前述のように細川家への出入り商人だった。
 市左衛門の父にあたる人物は細川藩の武士だったが、細川家を離れて非常に生活に困っている時期があった。同藩に出入りしていて旧知の仲だった花子の祖父はこの時、森村一家の面倒をみている。

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