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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈不屈のファイター アンディ・フグ〉

 今では広く使われるようになった“リベンジ”という言葉。そのきっかけとなったのは、1994年9月に開催された『K-1 REVENGE』であった。
 同年4月のK-1グランプリ、優勝候補の一角と目されながら決勝トーナメント初戦でよもやの1ラウンドKO負けを喫したアンディ・フグ。このときの勝者パトリック・スミスとの再戦に冠せられたタイトルが「リベンジ」であり、国内スポーツイベントで初めてこの言葉が使われている(もっとも、アメリカではモハメド・アリの時代からボクシング業界の宣伝文句として使われていたフレーズで、日本で広まったのも、後の1999年、西武時代の松坂大輔が使ってからではあるのだが)。
 そのリベンジマッチでスミスに快勝したフグ。1分足らずでの膝蹴りによるKO劇という鮮烈さも相まって、一躍K-1のトップスターとなった。

 そうして迎えた翌'95年のグランプリ。もはや優勝候補筆頭とも評されたフグであったが、再度一敗地にまみれる。
 1回戦の相手は日本では無名だったマイク・ベルナルド。その前年にジェロム・レ・バンナと好勝負した(結果は0-3の判定負け)というだけの実績しかなく、大半の見方は“かませ犬”にすぎなかった。
 ゴングと同時に攻勢に出たフグは前評判通り、1ラウンド終了間際、左ハイキックをガードして空いたベルナルドの顔面に左ストレートを打ち込みダウンを奪う。そのまま順当に勝利を得るかと思われた第3ラウンド。フグのハイキックに合わせるように繰り出したベルナルドの左フックをカウンターで食らいダウン。そのままラッシュに持ち込まれてTKO負けを喫してしまった。

 さらに同年9月、先年に続いてリベンジマッチが組まれたものの、ここでフグは返り討ちに遭う。前回試合と同様、キックにカウンターパンチを合わされてのKO負けだった。
 「踵落としに代表されるハデな上段蹴りを多用するフグの戦法だと、キックをガードされた瞬間ノーガードになってしまう。だからどうしても距離を詰めて闘うボクサータイプの選手とは相性が悪かったのです」(格闘技専門誌記者)
 まさにそれが'94年のスミスであり、'95年のベルナルドだった。
 この敗戦により「顔面パンチに慣れていない空手出身選手はK-1に向いていない」と言われることにもなった。

 体重100キロ超、身長2メートル近い巨漢選手がそろう中、体重は90キロ台、身長180センチと小柄なことも不利に働いた。
 だが、フグは諦めなかった。
 年が明けての'96年グランプリ。KO連勝で準決勝に進むと難敵アーネスト・ホーストも判定で下す。
 そうしてたどり着いた決勝のリング。対峙するのは因縁深きベルナルドであった。

 ゴングと同時に剛腕を振るうベルナルドに対し、フグは距離を取ってローキックを当てていく。フグは従前から「ファンが高いチケット代を払って試合を見に来てくれるのは非日常を見たいからだ。アマチュアでもできるありきたりの技でなく、難しい技に挑戦する姿を見たいんだ」と語っていたという。
 「ローキックでの攻めはそうした信条に反するようですが、フグはもうこのときK-1の人気を背負う存在。ファンからもまず勝利が求められていることをフグ自身感じていたからこそ、あのような戦法を採ったのでしょう」(前出の記者)

 ローキック攻めは奏功し、3ラウンドに入るとベルナルドは脚を引きずり始め、ついにダウン。これには何とか立ち上がったが、互いにファイティングポーズをとったその刹那、フグの下段回し蹴りがベルナルドの両脚をなぎ払った。
 フグトルネード。
 後にそう命名された大技は、実は極真時代からの得意技でもあった。

 この優勝により名実ともにK-1のトップに立つことになったフグ。時にハデなKO負けを食らいながらも、その度に復活してみせる姿は多くの格闘技ファンの胸を打った。だが、その最後の敵…急性白血病との戦いにはついに勝てなかった。
 2000年8月24日永眠、享年35。

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