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高橋4丁目の居酒屋万歩計(1)末げん(すえげん、鳥割烹)

 JR新橋駅から徒歩110歩

 洋画配給会社に制作という部署がある。映画を作るのではない。それは別の専門職のかたがなさること。この部署はプリント(業界では、現像されているフィルムはプリント、されていないフィルムは生《なま》といって区別する)を輸入して、日本語字幕をつけるまでが仕事。職人集団に交じって、2年ほど働いたことがある。
 約1センチ四方に縮小された字幕の銅版(通称ハンコ)をプリントに印字して、日本語翻訳入りの初号試写を主宰する。これが午前10時開始で、終われば正午。誤字や誤植の訂正に始まって、台詞(せりふ)の長短の調整、オスメスと呼ぶ日本語特有の男言葉と女言葉の使い分けのチェックなど、みっちり1時間打ち合わせをすると空腹感が襲う。それではあとはお昼を食べながらということにして、翻訳者をここにしばしばご案内した。
 かま定食と名づけられている特製親子丼を、主宰者が食したいということもないではないが、明治42年創業の黒塀に囲まれたいかにも料亭然としたたたずまいの鳥割烹は、畳座敷をしきる仲居さんたちの立ち居振る舞いも美しく、昼ごはんとしては新橋でも一頭地を抜いていたことが理由。女性翻訳者には特に好評を得ていた。

 お昼の献立は3種のみ。かま定食(1050円)。から揚定食(1470円)。たつた揚定食(1575円)。膳のおすましが逸品で、澄み切った生姜(しょうが)風味のトリスープになめこが3粒ほど沈んでいる。葱(ねぎ)が、白髪葱が、割烹でなければありえない細さに整えられて、花筏(いかだ)ならぬ葱筏。ほかに青物と香の物。鳥挽(ひ)きが半熟卵と絡んで丼いっぱい敷き詰められている黄色いお花畑を、隠れている白いご飯と混ぜて掻(か)きこむのが流儀だ。

 「三島由紀夫は(中略)1970年、市ヶ谷自衛隊東部方面総監部におもむく前夜に、楯の会のメンバー五人と最後の晩餐を」この店で催した(店の栞(しおり)より)。
 70(昭和45)年11月25日午前11時ころ自衛隊に討ち入りし、隊員たちの嘲笑(ちょうしょう)と怒号渦巻くなか決起をうながす演説をしたものの、幸か不幸か呼応する者がおらず、割腹自殺して果てた事件である。
 三島はこの朝、最後の小説「豊饒の海」(新潮社刊)第4部「天人五衰」を、はしょって完成させている。「天人五衰」は、最も短い第3部「暁の寺」よりもさらに70ページ短い。自身が加筆・訂正に加わっている年譜によると、67年から久留米陸上自衛隊士官候補生学校をはじめとする体験入隊を開始し、翌68年には学生を引き連れた2度にわたる体験入隊の後、民間防衛組織「楯の会」を結成している。
 このあたりから優先順位が変わってきている。かつて三島が面罵(ば)した太宰治(作家)のようには自衛隊員たちは優しくなかったし、事件を聞きつけて上空を飛び回りはじめたヘリの爆音も演説の邪魔をした。しかしながら、さりながら、声を嗄(か)らして「一体おまへは何を願つたのだい」(「橋づくし」より)という疑念は去らない。

予算1625円
東京都港区新橋2-15-7 エスプラザビル1F

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