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『家政婦のミタ』のエゴと『南極大陸』の協調性

 日本テレビ系水曜ドラマ『家政婦のミタ』が、11月16日に第6話「私を殺して! …承知しました」を放送した。松嶋菜々子が演じる家政婦・三田灯の家政婦らしからぬ家政婦に注目が集まるが、脇を固める面々も侮れない。三田が感情を出さない分、脇役の感情がむき出しになる。皆が自分勝手なエゴの塊である。

 筆頭は阿須田家の父・恵一(長谷川博己)である。この期に及んで不倫相手に未練を残している。しかも、それを義妹・結城うらら(相武紗季)の前で話す無神経ぶりである。家庭放棄の父親に代わって子ども達を養子に迎えようとする祖父・結城義之(平泉成)の姿勢は真っ当であるが、他人の話を聞かず、自分の価値観を押し付けるばかりで、善人とは評価できない。

 阿須田家の長女・結(忽那汐里)は被害者であるが、短慮と身勝手さが目につき、あまり同情できず、純粋な悲劇のヒロインにはなっていない。第11回全日本国民的美少女コンテストで審査員特別賞を受賞した忽那が演じる結を可哀想なヒロインで終わらせないところに、所属事務所のオスカープロモーションのエース女優を育てる本気度を垣間見ることができる。

 養子の話を軸に登場人物はバラバラのカオス状態から展開した第6話の『家政婦のミタ』は、TBS系日曜劇場『南極大陸』の皆が一つの目標に向かって団結して困難に取り組む展開とは対照的である。『南極大陸』は初回こそ20%以上の高視聴率を記録したものの、放送を重ねる度に視聴率は低迷する惨状である。

 早くも主演の木村拓哉に責任転嫁の声が出ているが、エゴをむき出しにする『家政婦のミタ』の好調を踏まえるならば、キムタク一人に責任を負わせることは酷である。むしろ皆が一つの方向を向く特殊日本的集団主義に熱狂しないほど日本社会が多様化し、成熟した証である。
 『南極大陸』では地質学者の倉持岳志(木村拓哉)が前向きな言動で南極観測隊を引っ張っていく。それがキムタクのPVのようであると不評であるが、問題はキムタクが中心となる展開にある。越冬隊の隊長・星野英太郎(香川照之)は物分かりが良すぎる。リーダーが物分かりの良いキャラならば、副リーダーは鬼軍曹的な厳しいタイプと相場が決まっている。しかし、越冬隊では倉持がナンバーツー的存在である。ナンバーワンもナンバーツーもイケイケドンドン型であり、組織のバランスが悪い。

 さらに問題は監査役の氷室晴彦(堺雅人)である。倉持の言動にストップをかける憎まれ役であるが、実はツンデレであった。憎まれ口を叩いても、結局は倉持の独走を許している。そもそも組織の論理では倉持と同じ山岳部OBは監査役として適切ではない。氷室が監査役となることは、実は倉持にとって甘い体制である。倉持に立ちふさがる壁はなく、キムタクの思い通りになってしまう。倉持らが遭難してしまうボツンヌーテン登山も無理筋で、組織のリスク管理がしっかりしてれば出発すべきではなかったものである。

 曲がりなりにも視聴率が高かった初回は、敗戦の傷跡が残る中で南極観測どころではないという社会情勢を丁寧に描き、それが南極観測に挑戦する倉持らの壁として登場していた。ところが、氷室も含めて、お友達ばかりの越冬隊では軋轢も予定調和のものになり、キムタク中心に皆が協調するドラマとして不自然さが際立つ。

 集団主義的とされる日本人であるが、ルース・ベネディクトが『菊と刀』で「恥の文化」と喝破したように、実態は自らを律する内なる倫理感が乏しいために集団主義になる。故に集団の権威が強ければ盲従するが、集団に権威がなければエゴイストになる。

 国家や企業など組織の権威が失墜した現代において、『家政婦のミタ』のエゴイズムは時代を映している。

(林田力)

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