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【幻の兵器】輸送能力は優れていたが航空機を搭載するには明らかに速度不足…上陸支援用の特殊船「あきつ丸」の失敗

 日本陸軍は上陸支援用の特殊船の開発、建造に力を注いでおり、世界に先駆けて1934年には上陸作戦専用の特殊船(舟艇母船)を建造し、神州丸と名付けて具体的な運用方法などについて熱心に研究を進めていた。その後1937年に日中戦争が始まり、同年10月の杭州湾や翌38年10月の広東など、中国におけるいくつかの上陸作戦で非常に良好な成績を収めたことから、陸軍はさらに10隻の特殊船を建造した。なかでもあきつ丸とにぎつ丸、そして後に追加建造された熊野丸とときつ丸には、航空機搭載能力と飛行甲板が備えられることになっていた。

 計画当初の神州丸にも航空機を搭載する能力が備わっており、完成当時は戦闘機発進用のカタパルトを装備していた。カタパルトだけでなく、戦闘機を収納する格納庫も備えており、上陸作戦時には船団上空の制空権を確保するという計画だった。だが、神州丸は飛行甲板を持たないために着艦が不可能で、計画では上陸部隊が占領した飛行場へ着陸することになっていたが、実際に戦闘機を運用するには無理があった。

 そのため1939年に決定した政府助成金で新しく建造する大型貨客船から陸軍特殊船(舟艇母船)を選定し、あきつ丸など設計段階から飛行甲板の装備を考慮していた。具体的には、民間大手海運会社へ商船建造の助成金を交付する代わりに、あらかじめ最小限の改造で舟艇母船となるような設計の船舶を建造させたのである。

 あきつ丸はそのようにして建造された舟艇母船のひとつで、表向きは商船として1939年11月に起工された。ただし、秘密保持と平時には商船として運行する関係から、飛行甲板は戦時に取り付ける予定で工事が進められていた。ところが、建造中にアメリカとの関係が緊迫してきたため、播磨造船での工事途中から仕様が変更されている。最終的には、飛行甲板のついた状態で対米開戦後の1942年に完成した。

 完成当初、あきつ丸には九七式戦闘機を13機搭載する事が予定されていた。だが、あきつ丸の飛行甲板では航空機を発進させられても、着艦させられなかった。そのため、神州丸と同様に無理があると判断され、戦闘機を運用する計画は中止された。実際、船舶に飛行甲板と格納庫を装備すればそれで航空機の運用が可能になるというものではなく、特に着艦の誘導や滑走中の航空機を制動する各種設備のノウハウとなると、長期間の試行錯誤を経たうえでないと確立できない種類の技術だった。

 そのため、陸軍はあきつ丸を航空機運送船として運用することとし、実際には戦闘機飛行隊を搭載することはなかった。航空機運送船としてのあきつ丸は、単発機なら約30機も搭載することができたため、日本海軍の軽空母に匹敵する搭載能力を持っていたといえるだろう。もちろん、通常の輸送船では航空機を分解しないと積み込めないのに対して、あきつ丸ならそのまま積み込むことができた。

 また、種類の組み合わせによって変化するものの、あきつ丸は約30隻から60隻の各種舟艇を搭載することが可能で、同時に約2000名の武装兵員を輸送することができたとされている。あきつ丸の船尾には、神州丸を始めとする舟艇母船と同様の門扉とスロープが設けられていて、クレーンを使用することなく舟艇を発進させることができた。ただし、搭載する舟艇の数を増やすと、その数に応じて航空機の搭載数を減らすことになったと推測される。これは兵員についても同様であり、航空機の格納庫を改造して兵員室にすれば、輸送可能な人数は4000名以上に増加しただろう。

 その他、あきつ丸の最大速力は21ノットで、輸送船としては十分に優れていた。だが、航空機を運用するには明らかに速度不足であり、このこともあきつ丸が当初の目的を達成できなかった要因のひとつだと考えられる。また、輸送船にとっては最大速力よりも巡航速力の方がはるかに重要なのだが、残念ながらあきつ丸の能力については現在もなお判然としないところが多い。ただ、あきつ丸の建造に際してはニューヨークライナーと呼ばれた高速貨物船を原型にしたとの説もあるので、おそらく15ノットから20ノットの中間だったのではないかと推測されている。

 完成したあきつ丸は、航空機運搬船として南方戦域へ投入された。太平洋戦争当時、日本陸軍の航空機搭乗員は地形を見ながら自機の位置を確認していたため、目標となる地理的特徴に乏しい洋上を飛行する能力に問題があった。そのため、パイロットを輸送業務から解放する航空機運搬船の存在は、陸軍航空隊にとって非常に意義のあるものだった。

 しかし、戦局の悪化と共に潜水艦による輸送船の被害が急増し、日本陸軍も対潜護衛艦艇を整備する必要に迫られた。ちょうどその頃、新型で滑走距離の極めて短い三式連絡機やオートジャイロのカ号観測機が実用段階に至っており、これらの機体ならばあきつ丸でも発着艦を始めとする運用が可能と考えられた。そのため1944年には飛行甲板の拡張を中心とした改修が加えられ、搭載航空機による対潜作戦を実施することとなった。

 そして三式連絡機を装備した独立飛行第一中隊が編成され、はじめて搭載飛行隊を持ったあきつ丸は対潜任務に着くこととなったが、戦局の悪化に伴って船舶不足は危機的状況に陥っていた。そのため、改装工事を終え、訓練をかねて日本列島沿岸で行動していたあきつ丸までも、陸軍部隊の輸送任務に投入せざるをえない有り様だった。実際、あきつ丸ほどのように大きな兵員や物資の搭載能力を持ちながら、かつ高速力を備えた船舶を輸送任務から外す余裕は全く無くなっていたのである。

 結局、搭載機を降ろして輸送作戦に従事しているさなか、あきつ丸は五島列島の沖合で米潜水艦の雷撃により沈没し、その数奇な生涯を閉じた。(隔週日曜日に掲載)

■あきつ丸データ
1942年(昭和17年)竣工
排水量:9190t
速力:21ノット
性能:大発27隻搭載

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