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俺達のプロレスTHEレジェンド 第30R 今なお最強幻想に包まれる“墓堀人”〈ローラン・ボック〉

 ローラン・ボックについてまわる“シュツットガルトの惨劇”のフレーズ。これについて、当時を知る記者は苦笑交じりに話す。
 「それまでメディアは“猪木最強!”と持ち上げてきただけに、負けたとなれば何か理由を付けなければならない。そのため“過酷な日程”とか“リングの固さ”とか“コンディション不良”とか、いろいろな言い訳を重ねた結果が“惨劇”という言葉になっただけのこと。サッカー日本代表が“ドーハの悲劇”とか言うのと同じことだよ」

 この試合を「猪木が策略に嵌められた」とか「セメントマッチだった」とする声もあるが、それについても首を捻る。
 「まず、過密日程については、23日間で20試合、それもシングルマッチばかりというのは確かに大変だけど、それは猪木もわかった上で受けたオファーだ。そもそもツアータイトルが『イノキ・ヨーロッパツアー1978』だったように、モハメド・アリ戦で有名になった猪木で一儲けしようというもの。そんな主役の猪木をつぶしたところで、主催者のボックは何の得にもならない」(同・記者)

 セメント云々というのも同じ理由からあり得ないという。
 「シュツットガルトでの猪木の敗戦は、ブッカーのボックが地元で自分が主役のブックを書いたというだけのことだろう」(同)

 このときのボックはまだプロレス転向して5年ほど。プロとしての引き出しは少なく、その良さを引き出すためには猪木が受けの一手に回るしかなかったというのが真相ではなかったか。
 とはいえ、ボックはグレコローマンスタイルのヘビー級西ドイツ代表としてメキシコシティオリンピックに出場したほど実力的には申し分なく、組みつくやいなや、あるいは力づくで引っこ抜くように投げ飛ばすスープレックスは説得力十分。その幽鬼のようなたたずまいと、日本とは異なる薄暗い会場の印象も相まって、ボックは後ろ暗い“惨劇”の首謀者として日本のファンの記憶に刻まれることになった。

 今も「ボック最強」を唱える声は少なくないが、これはその現役期間の短さにも由来する。
 わずかに日本へ遠征した以外には、故郷・西ドイツを中心としたヨーロッパでの活動がほとんどであり、アメリカンレスラーたちとの比較が難しく、またボック自身の情報も少ない。
 また日本では最初の登場が「対猪木戦での勝利」であったため、メディアもこぞって“強豪イメージ”を喧伝することになり、これが今なおボックの真の姿を曖昧なものにしている。

 西ドイツで行われたボックとアンドレ・ザ・ジャイアントの試合を伝えた週刊ファイトでは「ボックがアンドレをバックドロップで投げた」と記し、確かにそのような写真も掲載されたが、同じ記事内では「ダブルアームスープレックスでも投げた」ともしている。
 だが、完全に持ち上げなくとも格好のつくバックドロップならまだしも、ダブルアームとなるとアンドレの巨体を投げ切らなければならないわけで、これは“協力”があったとしても不可能に近い。
 このような真偽不明な記事は、ボック最強幻想をあおる一方で、その実質がインチキなもののようにも感じさせることになった。

 '81年の夏から'82年元旦にかけての来日時、木村健吾や長州力、ラッシャー木村といった面々を次々とスープレックス一閃で打ち破ったボック。しかし、元日決戦となった肝心の猪木戦は、生中継のため放送が尻切れになり、また試合自体も消化不良のものとなってしまった。
 ラウンド戦で行われたものの、第3ラウンドに入るとスタミナ切れの様子がありありで全く動けなくなり、結局レフェリーのミスター高橋をエプロン際から場外に突き落としての反則負け。それでも序盤には、グレコ流に前に差し出した腕のさばきで猪木の動きを完封すると、フロントスープレックスで鮮やかに投げ切るなど、強者の片鱗は見せた。

 来日時には交通事故、あるいは直前のアンドレ戦でのダメージにより体調不良だったともいわれ、またこの猪木戦が現役最後の試合となったこともあり、今なおボックの真の実力は幻想に包まれたままである。

〈ローラン・ボック〉
 1944年、旧西ドイツ出身。レスリング選手として五輪出場の後、'73年プロレス転向。プロモーター業も手掛け、'78年には猪木の欧州ツアーをブッキング。'81年、新日プロに初来日も、翌年元日の猪木戦を最後に引退した。

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