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俺達のプロレスTHEレジェンド 第51R アントニオ猪木の正統後継者〈前田日明〉

 「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか!」
 1986年、猪木が藤原喜明を破ったその試合後、リング上で前田日明の放ったハイキックに“新時代の幕開け”を予感し、胸躍らせたファンは決して少なくないだろう。
 「前田が猪木を下し、次世代のエースとして名乗りを上げる日は近い!」
 しかし、そんな期待はかなわなかった…。
 後に実現した前田と猪木の雑誌上での対談では、前田の「なぜシングルで戦ってくれなかったんですか」という問い掛けに、猪木は「逃げてたから」とはぐらかしている。

 よく言われることに「前田が“セメント”を仕掛けてくることを猪木が恐れた」というのがあり、事実、前田はそれまでにも幾度かガチンコを仕掛けている。
 第1次UWF時代のスーパー・タイガー(佐山聡)戦、新日復帰後のアンドレ・ザ・ジャイアント戦は、その代表的な試合である。

 しかし当時の状況を見てみると、どちらの試合においても前田は決して感情に任せて“ケンカマッチ”を仕掛けたわけではなかった。
 例えば佐山戦。そもそも2人の軋轢は、佐山がUWFを格闘技として競技化しようと画策したことに端を発している。
 「格闘技として真剣勝負をやるからには、地方巡業のようなツアーを組むのではなく、試合数を絞っていかなければいけない」というのが佐山の言い分だった。対する前田は「それでは食っていけない」と主張。当時の前田は、UWFを、あくまでもプロレス団体として考えていたわけだ。
 しかも佐山にシュートを仕掛けた1985年、大阪・臨海スポーツセンターでの試合後には、自ら責任を取る形で謹慎もしている(結果は実際には当たっていない金的攻撃を佐山がアピールしたことでの前田の反則負け)。
 アンドレ戦についても、アンドレの側から仕掛けられたと感じたために応戦したものであり、前田はその際に何度もセコンドに対し「やっちゃっていいんですか」と確認している。
 つまり「このままではアンドレにつぶされる」と判断したことからの緊急避難であり、ギリギリのところまではプロレスの様式を守ろうという気持ちはあったわけだ。

 そうしてみると、前田自身は訳もなくキレるような、あるいは自らの力を過信し見せ付けるような選手ではなく、プロレスラーとしての常識をしっかりとわきまえていたことがわかる。
 実際にその他の試合、藤波辰爾戦などではプロレス的名勝負を残しているし、そもそも猪木をガチでつぶすことが目的であったなら、タッグなどで対戦の機会はあったのだ。
 「そうした前田の本質的な部分は周囲もわかっていたはずですよ。外国人選手は前田たちUWF勢のキックから入るカタい攻めを嫌っていましたが、新日勢で前田のことを悪く言うのは聞いたことがない。山本小鉄などは所属選手よりも前田に目をかけていたぐらいですから」(スポーツ紙記者)

 そうであれば、猪木対前田が組まれても良さそうなものだが、そうはならなかった。
 「実際、猪木が逃げていたというのはあるんでしょう。ただしそれは、勝ち負けというよりも体調面からのこと。糖尿の悪化もあってハードな攻めに対応するのが嫌だったというのがホンネだったのでは」(同・記者)

 さらに言うと、UWFと新日の対抗戦はマニアファンからの人気こそは高かったが、中継の視聴率は振るわず低迷していた。そのためにテレビ朝日肝いりで長州力の新日復帰工作も行われている。
 経営判断として“長州重視”の意向があったからこそ、その後、前田が長州の顔面を“蹴撃”して負傷させた際には、前田への重罰が求められ、猪木の「プロレス道に悖る」との発言にもつながった。
 要するに新日対維新軍がメーンストリームになっていく中で、猪木対前田という黄金カードを出し惜しみしたというのが真相のようで、ひいては猪木も前田をそれだけ重視していたということではなかったか。
 しかしその結果、前田は新日を離れて第2次UWFを旗揚げ、一大ブームを起こす。だが、もし新日に前田が残り後継エースの座を得ていたならば、さて現在のプロレス界は、一体どんな様相を見せていたのだろうか−−。

〈前田日明〉
 1959年、大阪府出身。元在日韓国人三世(日本国籍に帰化済み)。高校卒業後の'77年、新日プロに入団。'84年、第1次UWF旗揚げに参加。新日復帰後の'88年、独立して第2次UWFを旗揚げ。'99年の解散後はRINGSを設立。現在はジ・アウトサイダーを主宰。

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