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女子プロ 三田英津子の引退と“東洋の猛女たち”ラスカチョの軌跡

 女子プロレスで一時代を築いた『ラスカチョ』がついに、その名声を閉じる時が来た。三田英津子が11・1NEO後楽園ホール大会で引退。“東洋の猛女たち”の波乱万丈の歴史にひと区切りがついたが、その花とイバラの道を振り返ってみる。

 三田英津子の引退表明により、下田美馬との名物タッグであるラスカチョも見納めになる。ラスカチョとは、ラス・カチョーラス・オリエンタレスの通称でスペイン語では“東洋の猛女たち”の意味を持っている。
 そもそも、このラスカチョは1992年3月に北斗晶&三田のメキシコ遠征で誕生した。当時、2人が所属する全日本女子プロレスはEMLL(現CMLL)と提携しており、精鋭選手を次々にメキシコに送り込んでいた矢先の出来事だ。
 メキシコでルーダ(ヒール)に変身した北斗&三田は帰国すると下田を配下に入れた。その際、北斗はなんとリング上で土下座をさせて入門を許すという斬新な行動を強要したのだ。三田と下田は同期だが、先輩の北斗はライオンの親のような存在で、いつも谷底に突き落とそうとする恐怖をチラつかせた。他の選手の前でキレられ、侮辱されるという緊張関係が続いたのだ。

 北斗が引退騒動でラスカチョの活動を休止すると、三田&下田が繰り上げ当選のように2代目を襲名。UWA世界女子&JWPのタッグ2冠王に君臨し防衛記録を重ねていったが、全女の2番手タッグの域は出られなかった。そのため、王座を返上後は一転して三田と下田は敵味方に発展。和解と抗争を繰り返した。
 WWWA世界タッグを奪取した後も、2人はさらなる欲望を満たすため97年に全女を離脱。ネオ・レディースに新天地を求め、デビュー10年目の賭けに出た。だが、旗揚げ戦こそ盛り上がったものの、ネオは資金難で頓挫。お決まりの内部分裂の末、三田&下田はフリーに転じたのだ。
 ここからラスカチョは大ブレイクしていく。古巣の全女、GAEA、アルシオンの3団体を股にかけ、タッグ王座を総なめ。特に全女とGAEAの団体同士の対立はラスカチョにとって神経戦を余儀なくされた。フリーとして修羅場をくぐり抜けたのも、各団体の若手ホープの前に立ちはだかり、大きな壁となり成長させていくことを役目としたからだった。
 解散は突然やって来た。02年10月にはデビュー15周年の自主興行を成功させたが、ラスカチョの活躍はここまで。下田は井上貴子と新たにコンビを組み、三田も高橋奈苗と共闘。03年6月、下田は三田に相談することなく引退を表明し、新団体AtoZのマネージャーに転身した。引退試合には三田も駆けつけ、最後のラスカチョを見せたが、ここから両者は長い冷戦関係となったのだ。
 下田は1年後に復帰し、その後メキシコへ旅立ち、三田はNEOに入団。もはや両者の関係は永遠に修復不可能とされていたが、三田のデビュー20周年試合に下田が花束を持って駆けつけたことで事態は好転した。
 08年10月、アマンドラ(木村響子&江本敦子)に急襲された三田はついにラスカチョ復活を決意。メキシコに移り住んだ下田も承諾し、5年ぶりに猛武闘賊の勇姿を披露したのだ。
 引退まで1カ月半を切った三田だが、ラスカチョでの活躍以上にプロレス界に残した大きな功績がある。それは男子でも世界的な流行になったデスバレー・ボムの考案者ということだ。174センチの長身から繰り出す破壊力は男子も顔負けするが、三田はあえて他の使い手と差別化するように“元祖デスバレー・ボム”と明記した。
 また、三田は数年前から介護の資格を取得し、老人介護に従事している。「痴呆症やアルツハイマーの老人の介護をしています。慣れるとやり甲斐があり楽しい仕事ですよ」と語る。
 三田の引退までラスカチョは止まらず突き進むのみだ。

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