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愛知県西三河地方の伝説 「白瀬轟中尉終焉の地」

 明治43(1910)年11月28日、日本南極探検隊「白瀬隊」は東京芝浦を出港して、明治45(1912)年1 月27日に南極大陸の「南緯80度05分、西経156度の地点」に到達し、その地を「大和雪原」と命名した。明治45(1912)年6月20日、58000kmの航海の後、一人の死傷者を出すこと無く全員が元気に芝浦に帰港した。「白瀬隊」の隊長・白瀬轟(しらせ のぶ)中尉(1861〜1946)は日本人で初めて南極大陸を探検した偉業を成し遂げた。昭和21(1946)年9月4日、白瀬轟中尉は愛知県挙母町(現在の豊田市神明町2丁目)で、不帰の人となった。現在、この地には「白瀬中尉終焉の地」の碑が建っている。

 白瀬轟は文久元(1861)年6月13日に秋田県金浦町の400年以上の歴史ある浄蓮寺の住職である白瀬道造・マキエ夫妻の長男として生まれた。19歳の時、北極探検をする意思を立て身心を鍛えようと陸軍日比谷教導団(下士官養成校)騎兵科に入学した。卒業後、仙台鎮台に配属され、輜重兵中尉となった。明治26(1893)年、32才で郡司成忠の千島探検に参加し寒地の専守島で、日本人として初めて越冬した。その後、明治43年まで宮城県、北海道庁に奉職した。

 1909年にアメリカの探検家ベアリーが北極点に到達してしまったため、南極探検の計画を進めた。白瀬轟は大熊重信の後援会長就任し、朝日新聞社や地元の秋田魁新報社を通じて、全国からの義捐金に支えられ、機帆船「開南丸」(204トン)を入手した。

 白瀬轟が51才の時、明治43(1910)年11月28日、白瀬轟を隊長とした日本南極探検隊は東京芝浦を出港した。明治45(1912)年1月27日に南極大陸の「南緯80度05分、西経156度」の地点」に到達し、明治45(1912)年6月20日、「白瀬隊」全員が無事に日本に帰港した。しかし、「白瀬隊」は装備の問題で南極点には到達できなかったが、その勇気と英知は全世界から称賛されたという。

(「三州の河の住人」皆月 斜 山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

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