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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈猪木vsシンの流血抗争劇〉

 アントニオ猪木とタイガー・ジェット・シンのシングルマッチは、全部で37戦を数える。ジャイアント馬場とアブドーラ・ザ・ブッチャーの対戦も34回を数えるが、これはチャンピオンカーニバルの予選なども含めたもの。対して猪木vsシンは、ほぼ全戦がメーン扱いである。
 対戦成績は猪木の23勝7敗7分け。ピンフォールやTKOなど、キッチリ白黒がついたものは11戦で(猪木の9勝2敗)、約7割が反則やリングアウトなどの不透明決着に終わっている。
 「後年には『またシンか』『もう飽きた』とのファンの声も聞かれはしたが、それでもいざ対戦となれば会場は満席だし、テレビ視聴率も高い水準で保たれていました」(新日関係者)

 シンが初来日した1973年から、全日本へ移籍する直前の'80年まで、約8年もの間、両者の抗争は続いたことになる。
 初来日時には、白昼に新宿の路上で猪木と倍賞美津子夫妻をシンが襲った、伊勢丹襲撃事件から抗争が始まり、決着戦のランバージャック・デスマッチで猪木が勝利。次の来日ではNWF世界2連戦が行われ、初戦でシンの火炎反則攻撃を浴びて怒った猪木が、2戦目で衝撃の腕折り勝利を収めている。
 最初から刺激の強い試合が続けば、そこで“打ち止め”になっても不思議はないが、猪木とシンはそうはならなかった。

 今となっては「初期の新日は有名外国人選手を招聘できず、そのためにシンを優遇した」という声も聞かれるが、しかし、当時参戦していた他の外国人選手、キラー・カール・クラップやブルート・バーナード、ニコリ・ボルコフらは、知名度や米国での実績ではるかにシンを上回っていたわけで、これをシン優遇の理由とするにはやや弱い。
 70年代後半、WWF(現WWE)との提携で外国人招聘ルートが強化されてからも、シンはメーンを張り続けている。
 「シンがファンから多大な人気を集めたのは、初登場時から変わらぬハチャメチャな暴れっぷりがあってのこと。入場時や場外乱闘で観客席までなだれ込むのはシンに限った話ではないが、観客に暴行を加えるまでエキサイトしたのはシンが初めてでしょう。地方巡業のとき、興行関係者というか地回りのヤクザ者にまで手を出してしまい、新日が会社として謝罪に走ったことも数知れません」(スポーツ紙記者)

 そこまでやれば、普通は問題外国人としてお払い箱になっても仕方がない。狂乱ファイトが客にウケるのなら、他の選手に真似させればいい。しかし、新日と猪木はそうしなかった。
 「一番の理由は、猪木と手が合ったということでしょう。ブッチャーのような大型ファイターだと、猪木の方で試合を作らなければならない。だが、シンの場合は単なるラフファイターではなく、レスリングの下地があるから、グラウンドの攻防を挟むなど互いに試合を作っていける。そうなれば試合時間の長短も自由自在で、テレビ生中継が多かった時代にはきっと重宝されたに違いない。さらに加えて、シンに対しては“新日産レスラー”として、どこか猪木にも愛着があったのではないでしょうか?」(プロレスライター)

 来日前のプロフィール写真でナイフをくわえたシンに対し、見栄えのするサーベルに持ち替えさせ、さらにターバンを巻いた猛虎キャラに仕立てたのは、まさしく猪木自身の意向であった。
 また、来日前は正統派のベビーフェースであったため、ヒールとしては殴る蹴るの単純な技しかできなかったところに、つなぎの見せ技としてコブラクローを使うよう伝えたのも、猪木だったという。
 「初期のシンは来日ごとに“秘密兵器”と称して、カナディアンバックブリーカーやブレーンバスター、バックドロップなどの新技を披露してきました。これらも実は新日道場で稽古して習得したものと言われています」(同)

 格闘技世界一決定戦が始まった'76年は、ウイリエム・ルスカ戦(2月)の直前や、モハメド・アリ戦(6月)の1カ月後に、猪木はシンとの試合でメーンを飾っている。これもやはり新日産レスラーとして、シンに対するある種の安心感があってのことだったか。
 考えてみればシンのハチャメチャぶりも猪木好みと言えそうで、実はシンこそが、猪木の遺伝子を最も受け継いだレスラーだったのかもしれない。

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