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【幻の兵器】敗戦までに完成は3隻…「潜高型(せんたかがた)」実戦にも参加できなかった原因

 第二次世界大戦前から大戦前半まで、潜水艦の水中速力は各国とも7〜9ノット程度で、それ以上の水中速力を発揮する潜水艦は非常に限られた存在だった。また、水中の潜水艦は水上航行中に充電した蓄電池の電力で電動機(モーター)を動かし、さらに電動機がスクリューを動かすのだが、蓄電池の電力は限られているため最大速力で水中航行を持続させることも非常に困難だった。もちろん、たとえ電力が残っていても艦内酸素が欠乏すれば乗員の行動に支障をきたすため、潜水艦といえども作戦行動の大半は通常動力で航行可能な水上で実施しており、特に反撃の可能性が少ない通商破壊戦においてはその傾向が強かった。

 だが、潜水艦を通商破壊兵器とみなしていた諸外国と異なり、日本海軍は潜水艦を艦隊決戦時の補助戦力とみなしていた。とはいえ、同時に日本海軍は太平洋戦争開戦前の各種演習における結果から、潜水艦による敵主力艦隊への追尾や攻撃が極めて困難なことも実証的に理解していた。すでに演習では、日本海軍の敵主力艦隊を目標とする潜水艦戦術そのものに対する批判的初見さえ見受けられたのだが、現場の部隊においては「困難であっても各人が工夫して任務を完遂」するという決意で問題を克服することとなっていた。

 というのも、有力な敵艦隊に対する水中襲撃を可能とすべく水中高速潜水艦の研究に着手しており、太平洋戦争前には七一号艦と呼ばれる実験艦を計画して様々な試験を行っている。この七一号艦は基地防衛用の小型潜水艦という建前で極秘に建造され、当時としては画期的な21ノットもの水中速力を発揮したが、実用性に問題があったことなどから実験のみに留まったという経緯があり、日本海軍は根本的な解決方法を見いだせなかったのだ。その後、水中高速潜水艦の研究は停滞したうえに、対米開戦が必至となったことから、必然的に通常型潜水艦の整備が優先されていった。

 ところが、ソロモン方面において日本海軍の潜水艦はたびたび米空母機動部隊を捕捉しているものの、水中速力の不足等から攻撃に失敗しており、連合艦隊においても問題視されていた(注1)。そのため、軍令部は1943年に水中高速潜水艦の設計を要求し、潜高型(せんたかがた)という名称で建造を決定した。資料によっては、当初は25ノットの水中速力が要求されたが、計画を具体化する過程で計画水中速力は20ノットに減じたとしている。計画速力の低下を招いた原因は、減速ギアが大きな騒音を発したために電動機と推進器を直結したこととされているが、開発の詳細については不明点も多く、さらなる研究が必要だろう。

 訓練や実戦において得られた教訓から、潜高型は七一号艦や甲標的(洋上で母艦より発進して敵主力艦隊を襲撃する水中高速潜水艇)の経験を踏まえて開発され、高速航行中の敵艦隊への肉迫攻撃を目的としていた。また、後述するように潜高型は水中充電装置や水中巡航用の補助電動機を備えておらず、艦内容積が小さくて酸素の絶対量が少ないこととあいまって、長時間の水中航行にはあまり向いていない構造だった。

 その他、後述するような事情で変更されたものの上甲板を鉄製とするなど、艦橋を始めとする構造物を可能な限り滑らかにした上、潜航中は対空機銃も船体に格納するなどして水中速力の向上に努めた。とはいえ、艤装(ぎそう)員長が回想しているところでは鉄製の上甲板が急速潜航時に残存空気の排出時間が予想を上回ったため、速力の低下をしのんで木製甲板にしたとある。その上、完成後にいわゆるシュノーケルのような水中充電装置(航走中は充電できないが、停止状態なら水中でも充電可能となる装置)を追加装備するなどしたため、最終的な最大水中速力は17ノットにまで低下している。

 加えて、潜高型の航続距離は各種伊号潜水艦の2割から3割程度で、中型潜水艦と同程度しかない。このことから、例えば南洋諸島の基地近海で敵艦隊を迎撃するような開発意図を持っていたと推測されており、少なくとも通商破壊作戦には全く不向きであることは明らかだった。

 ともあれ、以上のように潜高型は甲標的の拡大型ともいえる構造で、極短期間に設計を完了している。早くも1944年には呉工厰で起工し、戦況が緊迫の度合を高めていく中で建造工事そのものは急ピッチで進み、翌45年には竣工している。同じく戦時下で急増された丙型や乙型潜水艦の建造期間は概ね18か月前後かかっていたが、潜高型は電気溶接とブロック工法を全面的に採用したことから大幅に建造期間を圧縮した。さらに、潜高型に大きな期待を寄せていた軍令部は20隻もの同型艦を追加建造することとしているが、敗戦までに起工したのは8隻に過ぎず、完成したのはわずか3隻で実戦にも参加できなかった。

 大きな期待を寄せられていた潜高型ではあったが、実際に運用してみると様々な技術的トラブルが頻発してしまい、実用兵器として実戦に投入するどころではなかった。具体的には主機であるマ式一号ディーゼル機関の不調と水中安定性の不足、充電能力の不足、蓄電池の過熱や整備困難、また電池耐久力の不足など、いずれも潜水艦としては致命的な問題ばかりだった。中でも深刻だったのは蓄電池に関連する様々な問題で、電池の不具合によって潜高型は実用性を大きく損ねてしまったのである。

 水中で高速力を発揮するためには大容量蓄電池が不可欠だったのだが、当時は手頃な大きさの大容量電池が存在していなかったのである。蓄電池の研究開発は横須賀工廠電池実験部と民間の湯浅蓄電池製造株式会社、日本電池株式会社が行っていたのだが、新規に大容量蓄電池の開発を行う余裕はないと判断され、甲標的に搭載していた超大容量蓄電池を流用することとなったのである。

 しかし、甲標的用電池の搭載にはいささか無理があり、実に2068器もの蓄電池36群にわけて並列装備した上、艦内容積の関係から積み重ねたために温度差が生じて維持管理に莫大な手間がかかった。そればかりか、耐久力が小さいため再充電回数が限られており、実用性には非常に大きな問題があったのである。その他、潜高型は巡航用の電動機を備えておらず、常に主電動機を使用しなければならないという問題も抱えていた。また、前述の様に竣工当初の潜高型は水中充電装置を備えておらず、艦内容積が小さいこととあいまって、実際の水中行動時間は伊号潜水艦よりも短かったと推定される。最終的に、これらの問題点が解決されなかった事が潜高型の実用化を阻んだといえ、もし多数の同型艦が建造、配備されていても、連合軍の対潜能力が向上した第二次世界大戦末期においては、兵器として有効に活躍することはできなかったのではないだろうか。

 ただし七一号艦の段階で日本海軍が水中高速艦の有効性に気づき、たとえ少数でも開戦時に実用段階の潜高型を保有、配備していたなら情況はかなり異なっていただろう。確かに蓄電池をはじめとする様々な問題はあるものの、基本的に潜高型は開戦当時の技術水準で実用化可能な兵器であり、ソロモン方面で史実より1隻でも多くのアメリカ空母が失われていたなら、連合軍は間違いなく極めて困難な事態に直面していただろう。(隔週日曜日に掲載)

(注1):連合艦隊参謀長宇垣纏中将の日記である戦藻録には、昭和17年8月30日付けで以下のような記述がある(要点のみ)。前略〜物を見る事之にて十回めと云ふに何等実撃を加へざるは惜しき哉。潜水艦は通商破壊と諜報機関以外に価値無きものと識者の言うも宜なりと感ぜらるる。其の鼻をあかすの為にも一撃をこそ望ましけれ。〜後略

■潜高型(せんたかがた)データ
水上排水量:1070トン
水中排水量:1450トン
全長:70メートル
最大幅:5.8メートル
機関:マ式一号ディーゼル2基、2軸
水上出力:2750馬力
水中出力:5000馬力
水上速力:15.8ノット
水中速力:19ノット
航続距離(水上):14ノットで5800海里
航続距離(水中):3ノットで135海里
安全潜航深度:110メートル
兵装:魚雷発射管4門(魚雷10本)25ミリ機銃2門

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