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球界地獄耳・関本四十四の巨人軍、ダッグアウト秘話(22) 体が硬い柴田さん

 社交的で芸能人との付き合いがあるなど、いろんな意味で異色のマルチプレーヤーだったのが、柴田さん(勲氏)だね。なにしろ高校時代から華やかな都会っ子。ハマッ子で名門・法政二高のエース。しかも甲子園で夏春連覇の大スター。法政二高は法大の横のグラウンドで練習をするんだけど、それを見て「このレベルなら大学でやる必要はない。プロへ行こう」と決めたというんだから、すごいよね。

 巨人入りした時も鬼の寮長の武宮さんが「赤いシャツを着てきたのはアイツが初めてだ」と絶句したという、伝説があるくらいだ。が、格好だけでなく、さすが伝統校出身で野球をよく知っていることにかけても目立っていた。寮では武宮さんがルールに関するテスト問題を出し、80点以上取らないと、外出禁止にされる。だからオレたちは必死だったけど、柴田さんはいつも満点だったからね。
 6回もタイトルを獲得した、赤い手袋の盗塁王は、赤いシャツだけでなく、野球に関することでも、入団早々から目立っていたんだよ。
 ただし、順風満帆でスターになったわけではない。甲子園の優勝投手も、プロでは挫折したからね。ルーキーでいきなり伝統の一戦・阪神との開幕第2戦に先発する衝撃的なデビューをしながらKO。結局、投手として失格を宣告され、野手転向をさせられたわけだからね。

 その後は、「1番・センター」という定位置を確保、ONに次ぐ人気スターの座を獲得したが、あの時代にスイッチヒッターとして成功したことは特筆される。今は、高校でもプロでもスイッチヒッターはたくさんいるし、難しくない。なぜなら、いいバッティングマシンがあるからだ。1人で何時間でも打撃練習ができるからね。ロッテ監督の西村(徳文氏)などはスイッチヒッター転向1年目に3割を打っている。
 が、柴田さんの時代はそうではない。マシンもなく、打撃練習もままならないような時代に左右打ちに成功したのだから、たいしたもんだよ。しかも、柴田さんはアグラもかけないほど体が硬かったという肉体的な欠点があった。走るときに両手を横振りにする、あの独特の走法も、体が硬いことから生まれている。ああいう走り方しかできないんだよ。でも、盗塁王6回。この偉業は巨人のV9に大きな貢献をしている。
 「送りバントをさせ、相手に1アウトを与える犠牲なしで走者が二塁に行く。ONが控えているだけに、勲の盗塁はチームにとって、本当に大きな意味があった」。V9参謀の牧野さんも、こう絶賛していたよね。
 柴田さんには、変わった偉業だが、ある意味、もう一つ大きな勲章がある。「初めて一度もシーズン3割を打たないで、通算2000本安打を記録、名球会入りした打者」という、珍しい大記録だ。口が悪く、柴田さんとは水と油だったホリさん(堀内恒夫氏)なんか、「毎試合、毎試合出ていて、3割くらい打てないのか」と毒づいていた。「打者に転向していても一流選手になった」と言われるホリさんにすれば、自分が打撃に自信があるから、酷評する。が、3割を一度も打たないで、通算2000本安打を記録するのは至難の業だろう。それができたのは、丈夫で長持ちした証拠だから、ある意味やはり大きな勲章だと思うよ。

 水と油の柴田さんとホリさんのことで今でも忘れられないのは、現役晩年の話だ。みんなが「本当か? 見てこい」と大騒ぎになった事件が起こった。なんと2人がペアを組み、柴田さんがトスバッティングをやっていたのだ。最初で最後の珍事に誰もが目を疑った。味方の足を平気で引っ張る、猛者の集まりだったV9ナインだが、いざとなれば、手を組むという象徴的な結束のエピソードと言ったらいいのか。

<関本四十四氏の略歴>
 1949年5月1日生まれ。右投、両打。糸魚川商工から1967年ドラフト10位で巨人入り。4年目の71年に新人王獲得で話題に。74年にセ・リーグの最優秀防御率投手のタイトルを獲得する。76年に太平洋クラブ(現西武)に移籍、77年から78年まで大洋(現横浜)でプレー。
 引退後は文化放送解説者、テレビ朝日のベンチレポーター。86年から91年まで巨人二軍投手コーチ。92年ラジオ日本解説者。2004 年から05年まで巨人二軍投手コーチ。06年からラジオ日本解説者。球界地獄耳で知られる情報通、歯に着せぬ評論が好評だ。

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