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【幻の兵器】遠距離戦略偵察機が航続能力を活かして高々度重爆撃機へ仕様変更された「キ七四」。しかし現実に完成したのは…

 日本は1931年に満州(中国東北部)を軍事占領したが、ソビエトはそれに対抗して翌32年から34年にかけて極東の部隊を大幅に増強した。実際、第二次世界大戦前の時点で、既にソビエト極東軍は関東軍(満州の日本軍)を大きく上回る戦力を保有していたうえ、日ソ戦争ともなればヨーロッパからシベリア鉄道経由で大量の増援部隊が送り込まれるのは確実だった。

 そのため、平時よりシベリア奥地に至るソビエト極東軍の配備情況や移動情況、あるいはシベリア鉄道の運行情況等を把握しておき、万一の有事に備えるという発想が生まれたとしたら、それは非常に健全なことだったといえるだろう。とはいえ、広大なシベリア奥地を偵察するには数千キロの行動半径を持つ長距離機が必要不可欠であり、長距離飛行技術が確立されていない当時としては、非常に野心的かつ先進的な発想でもあった。

 旧日本陸軍では1936年と1939年に九七式と一○○式司令部偵察機を完成させ、世界に先駆けて高速戦略偵察機を実戦配備しており、戦略偵察情報の収集には極めて熱心だった。そして一○○式司偵の開発目処が立った1939年には、早くも次期司令部偵察機の開発をスタートさせていたのである。新型司令部偵察機開発計画としては、同じ39年に立川飛行機へ開発を命じたキ七○がよく知られているが、それとは別個に同じ立川へより大きな航続能力を持つキ七四遠距離偵察機の試作を命じていた。

 このキ七四はまず極めて野心的な遠距離偵察機として計画され、対米戦開戦後はその航続能力を活かして高々度重爆撃機へと発展していった極めて先進的、かつ異色の存在だった。キ七四の試作発注、あるいは開発内示の時期ははっきりしていないが、あくまでもキ番号から類推するかぎり1939年夏のキ七一試作軍偵察・襲撃機よりも後で、翌40年10月のキ七六より前と言うことになる。恐らく、陸軍は高速能力に重点を置いた司令部偵察機と、航続能力に重点を置いた遠距離偵察機の二本立てを狙っていたのだろう。

 だが、それにしてもキ七四には行動半径5000キロが要求されており、当時としてはほとんど実現不可能な航続性能といえた。とはいえ、キ七四が最初に要求された5000キロの行動半径をもってすれば、満州里を起点としてノボロシースクからオムスク、果てはウラル山脈に至るまでの広大な地域を偵察することが可能となり、軍事情報の収集という点においては日本が大きな優位を占めることとなるのだ。

 また1940年3月には同じ立川でキ七七(A26長距離機)の基礎設計が始まったため、キ七四の設計陣は準備段階で収集した資料を提供するなどして開発に協力したが、反対にキ七七の開発によって得ることができた情報も非常に多かった。いずれにしても、当初は1941年夏に原型初号機を完成させる予定だったのだが、対米開戦が迫ったことから高々度長距離重爆撃機へと開発目的を変更することとなった。結局、計画をほぼ根本的に見直す事となったため、最終的な性能要求案がまとまったのは1942年になってからだった。

 新たな要求性能案において、キ七四は長距離飛行性能に加えて高々度性能も要求されたことから、爆撃能力と与圧キャビンを備えることとなった。空気の薄い高々度を飛行する機体には、内部を地上とほぼ同じ大気圧に保って乗員の負担を軽減する与圧キャビンや、エンジンに送り込む大気の濃度を高める排気タービン過給器を装備させないと十分な戦闘力を発揮することができないのだが、そのいずれも当時の日本では実用化困難な先端技術であった。

 例えば排気タービン過給器の根幹となる部品には、高圧高温のエンジン排気を受け止める回転羽が存在している。だが、当時の日本にはそのように過酷な環境下で正常に機能する回転羽を制作する技術、特に冶金技術が立ち後れていたほか、与圧キャビンを制作するために必要なゴムのシーリングや開口部のパッキン、圧力差に耐えながらも透明で歪曲の少ない航空機用窓ガラスを製造する技術など、キ七四の制作には困難な技術的問題が数多く立ちはだかっていたのだ。

 結局、試作初号機が完成したのは1944年で、初飛行したものの排気タービンの不具合から満足に飛行試験さえできないような有り様だった。その後、排気タービンを改良した四号機をはじめとして、エンジンや与圧キャビンを改良した試作機が次々制作され、最終的には14機が完成している。しかし、いずれの機体も実用にはほど遠いような状態であり、様々な改修を重ねている間に敗戦を迎えている。

 日本陸軍がキ七四を開発した目的としては、ソビエトのシベリア奥地を対象とした隠密偵察、より具体的にはシベリア鉄道の要地要点に関する情報を得るためだったのではないかと推測される。というのも、先に述べたようにキ七四の開発が始まったのは1939年夏から翌40年初頭にかけての時期だと推測される。問題は、この時期に日本陸軍はノモンハン事件と独ソ不可侵条約の締結という2つの衝撃的な事件に直面しており、対ソ戦備の根本的な見直しを迫られていたのだ。そのため、日本陸軍首脳部は、対ソ戦について極めて深刻な危機感をつのらせていたのは間違いないだろう。

 また、場合によってはシベリア鉄道に対して小型爆弾による嫌がらせ的な攻撃を加え、運行を妨害することも考えられていたかもしれない。たとえ線路や列車にたいした被害がなくとも、攻撃を受けている間は運行が停止するため時間稼ぎにはなる。もちろん、本格的な爆撃機型を生産し、大規模な攻撃を加えられればより大きな効果を発揮するのは間違いないところだった。しかし、対ソ戦から対米英戦という劇的な戦略方針の変化によって、キ七四にはアメリカ本土に対する片道爆撃という、理性的な戦略というより感情的な思いつきを実行するための機体となる運命が待っていた。

 当初は非常に優れた構想に基づいて作業に着手したはずの開発計画が、様々な情況の変化によってその目的を見失い、最終的には意味不明の「作業を処理するための作業」となることがある。もしもキ七四が当初の計画通りに長距離戦略偵察機として開発されていたなら、たとえ実験機のまま終わっても航空史上においてもある程度以上の評価を得ることができたかもしれない。しかし、現実に完成したのは構造がやたらと複雑で、実戦には使えない爆撃機でしかなかった。航空技術の壮大な夢を追求するという役割は、兄弟機ともいえるキ七七(A26)が果たすこととなった。 (隔週日曜日に掲載)

■キ七四データ
全長:17.65m
全幅:27.00m
全高:5.10m
主翼面積:80.00平方m
重量:10,200kg
全備重量:19,400kg
発動機:ハ104ル・空冷複列星型18気筒×2
出力:1,900hp
最大時速:570km/h
航続力:7,200km+2時間
上昇力:8000mまで17分
最高上昇:12,000m
武装:12.7mm 旋回機関銃×1、爆弾1,000kg
乗員:5名

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