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鎌倉の大仏様

 相模湾に面した海辺の古都である鎌倉。三方を山に囲まれ、正面には、海水浴客やサーファーで賑わう由比ガ浜が開けている。源頼朝は、平家を滅亡させたあと、京ではなく、ここ鎌倉の地に幕府を開いた。

 由比ガ浜から、頼朝が現在の場所に創建した鶴岡八幡宮へ向かって「段葛(だんかずら)」と呼ばれる参道が敷かれている。頼朝の妻・北条政子が二代将軍となる頼家を懐妊したさい、安産を祈って築かれた。「段葛」の道幅は、鶴岡八幡宮に近づくにつれ狭くなる。長い道と錯覚させるための軍事目的という。

 そんな鎌倉のシンボルといえば、国宝の大仏像。「段葛」から西へ入り、藤沢方面へ向かう途中の高徳院にある。

 大仏像は、鎌倉時代初期に造立された。造立に関わる資料の多くは残されていない。大仏像を収めていた大仏殿は、南北朝時代に、台風で崩壊したとされる。大仏像の胎内に入ると、造立や補修に高度な技術が使われていたことが、うかがい知れる。仏身11.3メートル。台座を含む総高13.4メートル。

 高徳院には、大仏像のほか、鎌倉や、鎌倉とゆかりの深い人物の歌碑がある。その中の一つ、与謝野晶子歌碑には、「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におはす夏木立かな/晶子」と刻まれている。1952年に建立された。

 高徳院は梅の名所としても知られている。山門前の白梅は咲き始めている。高徳院をはじめ鎌倉の多くの場所で、2月の下旬から梅が見ごろを迎える。また、高徳院境内では、山から下りてきたリスを見かけることが多い。
 
 鎌倉の山には、何か所か、「切通し(きりどおし)」と呼ばれる通路が掘削されている。これはトンネル掘削技術が発達していなかったころ、難所に人馬を交通させるため用いられた。鎌倉の「切通し」は、封鎖を容易にするため、特に狭く造られている。

 南北朝時代の武将である新田義貞は、鎌倉総攻撃にあたり、当初、軍を三手に分けた。「化粧坂(けわいざか)切通し」「極楽寺坂切通し」「巨副呂坂(こぶくろざか)切通し」から鎌倉へ攻め入った。天然の要塞を利用した北条軍の猛反撃に遭い、敗退している。義貞は、干潮の稲村ガ崎を越え由比ガ浜へたどり着く。鎌倉へなだれ込み、幕府を滅亡させた。(竹内みちまろ)

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