そんな中にダスティ・ローデスを並べることには異論もあろう。しかしながら日本でのローデスが、アメリカほどにはスーパースター的存在として認知されていないのもまた事実である。
日本で紹介されるローデスは、そのニックネーム『アメリカン・ドリーム』にちなんだ“ゴージャス”“スタイリッシュ”といった類いのものばかりで、そのころに本国ではおなじみだった「俺は配管工の息子!」との決めゼリフがテレビ等から聞かれることは、まずなかった。
「そのときにローデスの話す言葉がまたコテコテの南部訛りなんですね。そんな田舎者の不良アンちゃんがプロレス界のトップに上りつめて大金を稼ぐという“成り上がりストーリー”。実のところ、これがアメリカではウケていたんです」(当時の米マット事情に詳しいプロレスライター)
日本では、そのニュアンスまで理解してローデスに声援を送っていたファンはまずいなかっただろう。それでいて、なぜ一定以上の人気を得られたのか。そこには当時の日本の文化事情が深く関わってくる。
日本にマクドナルドが初出店したのが1971年。くしくもローデスの国際プロレスへの初来日と同じ年である(まだこのときはディック・マードックとの『テキサス・アウトローズ』として知られる“ダーティ”ダスティ・ローデスではあったが)。アメリカでは庶民の食であるハンバーガーが日本で高級外食と受け止められていたように、日本におけるローデスはうわべだけの豪華さを“本場の高級品”としてありがたがられていた。日本人選手なら「真面目にやれ!」と罵倒されるだろう“腰振りダンス”もヤンヤの歓声で受け入れられたのだ。
ウマいのかマズいのかもわからずにハンバーガーを食していたように、何だかよくわからないが、とにかく“アメリカの象徴”として日本のファンはローデスを歓迎した。新日本プロレスへの来日時、あえて一週間程度の特別参戦としていたことも、ローデスの高級感を増すことになった。
ちなみに、その当時には「アメリカで引っ張りダコだから長く日本滞在ができない」などと特別参戦の理由が語られていたものだが、後になって「ローデスのギャラが他に比べて高過ぎたので全戦参加させられなかった」と新間寿氏は真相を明かしている。
そうはいっても、ただ舶来品を押し頂く感覚だけでは長く人気を集めることはできない。やはり重要なのは試合内容になるわけだが、その点においてもローデスは一流だった。繰り出す技はエルボースタンプにエルボードロップ、パンチと4の字固めぐらい。それでいながらパフォーマンスに偏ることなく、見応えある試合を繰り広げた。
「中でも猪木とのNWF戦などは両者の持ち味が出た名勝負と言えるでしょう。試合での間の取り方がうまく、観客への見せ方を熟知しているんですね」(前出のプロレスライター)
流血時にはあえて額よりも上部をカットすることで、遠目には白髪にも見える薄いブロンドヘアに血の赤が鮮やかに映える。そんな見た目の細かな部分にまでもこだわりが感じられた。
ジャイアント馬場は「こんな腰振りがはやるなんて」とローデスを酷評したという。しかし、ショーマンスタイルとは真逆であるはずの新日においては、これが受け入れられることになった。
「新日の緊迫感に満ちた雰囲気の中で、あのどこかコミカルな存在感が一服の清涼剤となったのでしょう。猪木は'95年に北朝鮮で行われたイベントでのリック・フレアー戦でもそうだったように、意外とアメリカン・スタイルと手が合うんですね」(同前)
猪木の“燃える闘魂”を際立たせるという意味においても、ローデスの存在は貴重だったのだ。