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俺達のプロレスTHEレジェンド 第28R 凶器&場外戦の悪役スタイルを確立〈ザ・シーク〉

 “アラビアの怪人”ザ・シークに対し「雰囲気は一流、試合は二流」との印象を持つファンは多いだろう。実際、試合では凶器攻撃と場内徘徊ばかり。何らプロレス的テクニックを見せることなく短時間で反則やリングアウト決着となることがほとんどであった。
 だが、20代のシークがドリー・ファンク・シニアと闘うのを幼いころに見たというテリー・ファンクは「動きが素軽く、グラウンドのテクニックもあった」と評している。

 かつてのアメリカでは、ヒートアップしたファンが悪役レスラーに襲い掛かることも多かったというが、シークはそんな中にあっても堂々と場内徘徊をしていた。そうした姿からは「ファンごときにやられはしない」との自信の程もうかがえよう。米軍兵士として第2次世界大戦にも出征した経歴はダテではないのだ。
 ただ、日本のファンがシークの本来の力を知らないのも無理はない。初来日の時点で既に46歳と全盛を過ぎていたのだから…。

 アメリカにおいてはトップヒールで鳴らし、NWAはもちろん、WWFでもブルーノ・サンマルチノらと抗争を繰り広げた。レバノン移民の二世であるシークがデトロイトの興行権を買い取り“帝王”と呼ばれるまでになったのは、オイルマネーでも何でもなく、高額のファイトマネーを稼ぎまくった結果である。
 「日本でも長く“未知の強豪”として来日が待たれていたけれど、そんな時間が取れないくらいにアメリカでのシークの悪役人気は凄まじかったんだ」(当時を知る記者)

 来日当初の待遇も完全にトップスターへのそれで、日プロでは坂口征二とのUNヘビー級タイトル2連戦のみの参戦(結果は1勝1敗)。全日でも、後にジャイアント馬場の代名詞ともなるPWFヘビー級王座の栄えある初防衛戦相手に指名されている。

 1974年、新日への参戦では、日プロ以来の因縁である坂口との対決後にアントニオ猪木とシングルを2連戦。猪木の反則負けの後、決着戦として行われたランバージャックデスマッチで、シークはレスラーたちの壁を破って逃亡する。さらにその試合を最後にシリーズ欠場したことで、さまざまな憶測を呼ぶことになった。
 「デトロイトの興行問題で急きょ帰国したというのは新日側の発表だが、実際はどうだったか。当時のシークの高額ギャラを考えると、そもそも全戦参戦の予定はなかったのかも」(同・記者)

 日本へ定期参戦するようになったのは'77年、全日の世界オープンタッグ選手権で、アブドーラ・ザ・ブッチャーと『地上最凶悪コンビ』を組んでから。シーク51歳のころであった。
 テリーの腕をフォークで切り裂く流血戦は、シーク&ブッチャーの残虐性を存分にアピールする一方で、テリーのアイドル人気を高めることにもなった。
 「年齢的に激しい動きがキツイのもあっただろうけど、それ以上に、シークのファイトスタイルの裏にはしっかりと計算があったと思います」(プロレスライター)

 悪役はより悪役らしく、観客からの一切の称賛を拒絶することで、ベビーフェースがより際立つ。
 「それでいて客ウケを意識するようなところもあって、会場内の柱によじ登ったりするなど、時折奇妙な行動を見せていましたね」(同・ライター)

 試合における計算高さとエンターテインメント意識の強さは最晩年、FMWに参戦したときに強烈に表れた。'92年に行われた大仁田厚&ターザン後藤vsシーク&サブゥーのファイヤーデスマッチ。リング周囲のロープが燃え上がり、マット上が計算外の酸欠状態に陥ったとき、まずシークはレフェリーに対し「俺がお前を場外へ投げるからそのまま逃げろ」と伝えると、自身は最後までリングに残った。そうして主役の大仁田が場外にぶっ倒れているその脇で、シークは観客を追い回し、最後まで会場内を沸かせてみせたのだった。

 このときタッグを組んだサブゥーはシークの甥っ子で、2003年シークが亡くなる間際に見舞いへ行くと、シークはもはやベッドから身体も起こせないのに「死ぬ前にもう一度試合がしたい」と話したという。
 悪役に徹したその裏には、やはり純然たるプロレス愛があったのだ。

〈ザ・シーク〉
 1926年、アメリカ出身。'50年にデビュー。凶器や火炎を使う悪役スタイルを確立して、一躍トップスターに。初来日は'72年、日本プロレス。'77年からは全日本プロレスの常連に。2003年、76歳で死去。

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