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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈ヒクソン・グレイシーvs高田延彦〉

 今となっては“世紀の激突”とも称される1997年10月11日の『PRIDE1』。ヒクソン・グレイシーと高田延彦の一戦だが、当時のファンの関心は、さほど高くなかった。
 主催者発表では「観衆4万6863人」とされたものの、当日の東京ドームには空席も目立つありさま。新日本プロレスの大会ならば、常に超満員が当たり前の時代である。
 「プロレスや格闘技の専門誌でも、この試合を盛り上げようという気運は薄かった。主催のKRSは“元・小室哲也のスーパーバイザー”なる人物が代表を務める格闘畑とは無縁の組織で、これを宣伝することは既存団体への裏切りに当たるという考えがあったのです」(格闘技ライター)

 高田の立ち位置も、どこかはっきりとしなかった。
 '92年、UWFインターナショナルの旗揚げ後には北尾光司やスーパー・ベイダーを撃破して「最強」を名乗ったものの、'95年には「近い将来の引退」をリング上から宣言。その直後には参院選に出馬し、落選。新日本との対抗戦では新日勢や天龍源一郎らと勝った負けたを繰り返し、Uインター末期にはアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦するなど、いわば“格闘風プロレス”の色合いを濃くしていた。
 Uインター解散後、所属選手らの立ち上げた新団体『キングダム』にも正式参加はせず、現役選手であるのかどうかも含めてあやふやだった。

 片やヒクソンはバーリトゥードジャパン大会で連戦連勝。高田と同じUインターの安生洋二を道場で血祭りに上げるなど、その確かな実力は格闘ファンの間に浸透していた。
 当時、プロレスラーのバーリトゥード挑戦においては“ケンカ最強”といわれたケンドー・ナガサキが一敗地にまみれるなど、苦戦が続いてもいた。
 「それでも、まだプロレスファンの間では“一流選手なら勝てる”との思いが強く、そのため高田をプロレス代表として応援するというよりも“ヒクソンにとっての試金石”ぐらいの認識が主流でした」(同・ライター)

 高田の入場曲『トレーニングモンタージュ』が場内に響き、リングに上がった高田はヒクソンに一礼。セコンドの安生と長く抱き合っていた。
 後に高田はこのときの心境を「死刑台に上るようだった」と語っている。
 ヒクソンの強さへの畏怖はもちろんだが、加えて主催者の都合から試合開催そのものが二転三転したために精神面でも前向きになれず、また練習中には腰を痛めるなどアクシデントもあったという。
 だが、それらが皆目言い訳にならぬほど、バーリトゥードという試合形式においてのヒクソンと高田の実力差は圧倒的だった。

 アップライトの構えで顎を上げ、挑発するかのように前に出した脚を踏み鳴らすヒクソンに対し、高田はその周りをグルグルと回るばかり。ときおりキックを放つようなアクションを起こすが、これにヒクソンは全く動じない。
 そんな膠着状況に「耐え切れない」とばかり高田が組みかかり、両者もつれるようにマットに倒れ込むと、そこから立ち上がろうとする高田の脚をすかさず捉えたヒクソンは、一息に抱え上げてテイクダウン。
 高田は下からヒクソンの頭を抱え、脚を絡めて懸命にマウントポジションを防ごうとするも、ヒクソンはその一つひとつに冷静に対処していく。
 そうして高田を制圧したヒクソンはセコンドに時間を確認すると、5分間のラウンドが残り25秒となったところで腕十字固めを仕掛けた。残り時間がそれぐらいならば、万が一、技を返され不利な体勢になったとしても、しのぎ切れるという計算ずくの攻撃だった。

 試合後、アントニオ猪木は「一番弱いヤツが出て行った」と高田の敗戦を斬って捨てた。これには「高田最強」とは認めていないファンですら「負け惜しみなのか業界擁護のためなのか、いずれにしても妙なことを言う」と首を傾げるしかなかった。
 だが猪木からすれば、この結果によってプロレス界の危機を感じた故の言葉であり、その感性の正しさは程なく「プロレスラーの連戦連敗」という形で証明されることになった。

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