「猪木が東京プロレスを旗揚げしたことに危機感を持った日本プロレス側が、対抗策として破格のファイトマネーで招聘したのがエリック。日プロ崩壊直前、最終ツアーのタイトルが“アイアンクロー・シリーズ”だったことを見ても、どれほどその人気を頼りにしていたかがわかるというものです」(ベテラン記者)
試合の焦点を「クローを決めるか決めないか」という一点に集約させた、言ってしまえば実に単純なファイトスタイルだが、だからこそ、そのわかりやすさが観衆を魅了することにもなった。
「とはいえ、他のクローを極め技とするレスラーは、人気では到底エリックにはかなわなかった。そのたたずまいや存在感も併せての人気だったのです」(同)
そもそも、ドイツ系(ナチス系)ギミックのレスラーがクロー技を多用したのもエリックの影響を受けてのことであり、フォロワーが本家に追いつけないのは当然かもしれない。馬場がエリックのキックを「馬の蹴り」と称したように、もともとの地力も規格外で、だからこそクローの説得力も際立った。
一説によれば、その握力は何と200キロ! 日本人成人男性の平均握力が約50キロで、あの室伏広治でも130キロといわれるのに比べれば、エリックの握力がいかに図抜けていたかがわかろう。
「“握力200キロとは大げさだ”という声もありますが、ジャンボ鶴田の試練の十番勝負の最終戦、反則負けとなったエリックはセコンドの大仁田厚にアイアンクローを極めると、片手でリングの内外を引きずり回していました。あれを見れば、本当に凄まじい握力だったことがうかがえます」(プロレスライター)
数多のレスラーの中でも、リンゴを一瞬で握りつぶすパフォーマンスを見せたのは、このエリックとダニー・ホッジぐらいのもの。かつて息子のケリーも、自身の実測握力が160キロもありながら「親父にはかなわない」と話していて、200キロという数値は決して大げさではなさそうだ(ちなみに現在、握力のギネス記録は192キロ)。
さらに驚くべきはその掌のスパンで、アイアンクローを仕掛ける場合、大抵のレスラーは目一杯に掌を広げても左右こめかみを押さえるのが限度だが、エリックは相手の顔面を覆ってもなお余裕があった。そのため、こめかみに当てた指の爪を立てることによって“アイアンクローで流血”というセンセーショナルな場面を演出することが可能となったのだ。
メーンタイトル獲得はAWA王座のみであったが、テキサス州ダラスにおいてはプロモーターとしても大成功。早くからNWA傘下の新団体を立ち上げて、オーナー兼エースとして活躍した。
「1982年、テキサススタジアムで行われたエリックの引退試合も超満員。当時地区王者だったキングコング・バンディを相手に、場外でアイアンクローを極めての完全勝利でした。引退する選手が現役王者をKOしても許される、それほどエリックの人気ぶりと権力の強さはスゴかったんです」(前出・記者)
だが、そんな栄華も永遠には続かなかった。
最大の不幸は、幼くして事故で亡くした長男を含めて6人の息子のうち5人に先立たれたことだろう。それも、薬物使用が原因とされる病死のデビットに、ケリー、クリス、マイクは自殺と、いずれも「天命を全うした」とは言い難いものであっただけに、エリックの心痛は想像に余るものがある。
さらにはWWFとの興行戦争に敗れてプロレス事業から撤退、そして離婚…。失意のどん底の中、'97年、ガンにより68年の人生に幕を閉じることになった。
そんな“呪われたエリック一家”にとっての希望が、ロス&マーシャルの新エリック兄弟。同じくレスラーだった次男ケビンの息子でエリックの孫にあたる彼らは現在、日本の団体プロレスリング・ノアに所属している。特に弟のマーシャルは祖父似の風貌で、兄のロスより一回り大きく体格にも恵まれていることから、かかる期待は大きい。
〈フリッツ・フォン・エリック〉
1929年、アメリカ・テキサス州出身。'54年にデビュー。初来日は'66年、日本プロレス。日プロ崩壊後は全日本プロレスに参戦した。アイアンクローの開祖で「鉄の爪」の異名をとった。'97年、癌のため死去。享年68。