五輪本戦まで2週間を切った練習中に、古賀は左ヒザ靭帯損傷の大ケガを負い、そのとき乱取りの相手を務めていたのが吉田だった。不運な事故だったとはいえ、ケガを負わせてしまったという悔恨は強く残った。
なにしろ吉田にとって、古賀は憧れの柔道家であり、古賀をまねて無精ひげを生やしたこともあった。五輪選手村でも2人は同部屋で、むろん古賀は吉田を責めるようなことは一切なかったが、それが余計に心の重しとなっていた。
金メダルを手にした吉田が部屋に戻ると、翌日に試合を控えた古賀はすでにベッドに入っていたが、気配を察してムクリと起き上がり、笑顔で一言「おめでとう」と声を掛けた。それでようやく吉田も、優勝を実感することができたという。
吉田は翌日、ヒザに痛み止めを打ちながら試合に臨む古賀に向けて、懸命に声援を送り、その金メダル獲得の瞬間を心から祝福した。
'96年のアトランタ五輪では、86キロ級で2階級制覇を目指した吉田だったが、結果は5位に終わる。翌年からは母校・明治大学柔道部で監督を務めながら競技を続け、'00年のシドニー五輪では、90キロ以下級で出場を果たした。
しかし、その3回戦、吉田は対戦相手の投げをこらえようと手をついてしまい、右ヒジ脱臼の重傷を負う。受け身には自信を持っていたはずの吉田が、なぜ、そんなことをしたのかといえば、五輪制覇への執念が、無意識のうちにそうさせたとしか言いようがない。
はたから見ても腕が逆に曲がるのが分かったほどの重傷で、対戦相手の襟をつかむことすらかなわず、敗者復活戦を棄権。これにより吉田は第一線から退くことになる。
元来は明るい性格の吉田だが、その格闘人生においてはどこか暗い影がついてまわった。
'02年にプロ格闘家に転身した吉田だが、その原点ともいえる闘いが'94年の全日本選手権だろう。無差別級で行われる同大会の準決勝で、吉田は小川直也と対峙する。
吉田にとって明治大学柔道部の先輩にあたる小川だが、2人の間には当時から確執があったといわれる。
「小川の理不尽なしごきに対し、吉田が反抗的な態度を取ったためとも伝えられるが、それはどこの部活動でも見られること。柔道エリート養成所の講道学舎出身の吉田と、高校から柔道を始めた小川。社交的な吉田と一匹狼的気質の小川というように、いろんな面で対照的で、単に反りが合わなかったということだったのでは?」(スポーツ紙記者)
だが、世間からすると「期待を集めながらバルセロナ五輪で銀に終わった下り坂の小川」と、「ダークホース的存在ながら金を獲得した新スターの吉田」であり、30キロ近い体重差からの判官贔屓もあって、吉田を応援する声の方が大きかった。
試合は序盤から吉田が背負い投げを中心とした積極的な攻めを見せ、小川をグラつかせる場面もあった。しかし、中盤に小川が支え釣り込み足で吉田を宙を舞わすと、ポイントにはならなかったものの、以後は小川が攻勢に…。そのまま互いに決め手を欠き、試合は旗判定へと持ち込まれた。
試合後も余裕を残す小川と息の上がった吉田。試合を通しては吉田の攻めが目立ったものの、技の質では小川が上回り、どちらが優勢と言い難い内容ではあった。
審判の旗が2本、自分に上がったのを見ると、吉田はバルセロナ五輪のときと同じように、両拳を突き上げた。一方の小川は「マジか?」と吐き捨て、不服な表情のまま試合場を後にした。その勢いのまま全日本初制覇となれば、吉田は一気に国民的ヒーローとなっただろう。
だが、決勝の相手も超重量級の金野潤とあっては、小川戦で力を使い果たした吉田に勝ち切るだけの余力はなかった。今では反則技とされるカニ挟みで金野にペースを奪われると、見せ場なく判定負けに終わったのだった。