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プロフェッショナル巧の格言 橋本テツヤ(ジャーナリスト)(1)

 「テレビはニュース以外、見ない。バラエティー番組の出演者はお笑い芸人ばかり。喋りが度を越して、不愉快になって、途中で耐えられなくなるからだ」と辛辣なコメントをするのは橋本テツヤ。差し出された名刺には『ジャーナリスト コラムニスト』と書かれてあるが、彼は深夜ラジオ番組『セイ!ヤング』(文化放送)のパーソナリティーを務め、“昭和を代表するDJ”と言われ、テレビではTBSの『クイズ100人に聞きました』の“屋根裏の声”で一世を風靡した男だ。
 「僕は慶應大学の学生だった頃、“東京六大学軽音楽ジャズフェスティバル”の司会をやっていた。その時、文化放送からパーソナリティーとしてスカウトされたんです。契約でしたが、同じころに社員としてみのもんたが入社してきた。みのとは同期のようなもんですよ」

 当時、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』に対抗して文化放送は『セイ!ヤング』という番組をスタート。初代パーソナリティーに起用されたのが橋本テツヤだった。
 「後出しじゃんけんでスタートしたんですが、『オールナイトニッポン』を抜く人気でしたね。番組は月曜日から土曜日までですから、僕以外に土居まさるさんやみのもんた。それに当時、人気があった作詞家のなかにし礼さんら、6人のパーソナリティーがいたんです」

 リスナーは受験生が大半で、その中で一番人気があったのが橋本だった。
 「当時の受験生は、学校の先生より僕らパーソナリティーの言うことを聞いたんです。ハガキだけでなく、人生相談の手紙まで来ましたよ。僕が一番多くて、週に段ボール3箱届きました。みのは男の子のファン中心で、僕は女の子のファンが多かった。家出してくる子もいて困りましたよ」

 橋本は人気が出れば出るほど、「24歳か25歳くらいの人生経験が豊富ではない男が受験生の相談に簡単に答えていいのか?」と自問自答したという。
 「いち早く辞めて、テレビ出演するようになったんです。一方、みのは『ラジオ番組だと顔が売れない』と悩んでました。“みのもんた”の名付け親は作家の野末陳平さん。本名の“御法川”では言いづらいからそう命名した。“もんた”は動物好きな野末さんがモンキーから取ったんでしょう」

 2人は野末氏に可愛がられ、ある日、神楽坂の“お茶屋遊び”に招待された。その時、顔が売れていないみのは、料亭の仲居さんにマネージャーだと間違われたという。
 「それがよっぽどショックだったんでしょう。座敷に入るなり、お膳をドンと叩いて『ラジオだけじゃダメだ。テレビに出て顔を売らなければ』と悔しがっていました。その直後、みのは文化放送を辞めてフリーになったんです。次男の不祥事で番組を降板させられましたが、みのがテレビに執着するのは、その時の悔しさがバネになっているんだと思いますよ」

 みのよりいち早くテレビにスライドしていた橋本は、『ザ・ロンゲストショー』(テレビ東京)の総合司会を務めた。
 「5時間半の生放送で、番組の中に中央競馬の実況中継が入っていたんです。中継を担当したのはフジテレビの朝の情報番組『とくダネ!』の司会を務めている小倉智昭。当時、彼はテレビ東京の社員だったんです。その頃から、小倉は髪のことで悩んでました」

 橋本は『ビックリ日本新記録』(日本テレビ系)の初代司会者も務めた。

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