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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈変幻自在のトリックスター〉

 格闘家にとって、引退は決して喜ばしいことではない。「もう闘えない」という自己同一性の喪失だけでなく、その後の生活の問題も関係してくる。
 相撲やボクシングのように業界の体系がしっかり整った世界であっても、部屋持ちの親方やジムの会長になれるのは、一部のエリートだけ。業界を統一する組織すらない総合格闘技やプロレスともなれば、さらに引退後の身の振り方は難しくなる。
 「順調にタレント活動をしていたように見えた魔裟斗までが、この年末に復帰するのは驚きでした」(格闘技ライター)

 先日引退した天龍源一郎が、65歳までリングに上がり続けたように、一流どころであっても将来の保証はない。そんな中にあって、リング外でも堅調な活躍を続けるのが須藤元気だ。
 引退直前に発表されたエッセイ集は、10万部超のベストセラー。俳優や映画監督をこなし、近年はパフォーマンス集団のワールドオーダーを率いて、世界的な活躍を見せている。
 「格闘家としての須藤は、もちろんスター選手の一人ではありましたが、組織を代表するような看板選手ではなかった」(同)

 K-1に登場した当初、テレビ中継で付けられたニックネームは“だまし討ちのアーチスト”だったが、のちに“変幻自在のトリックスター”となった。しかし、トリックも「詐欺師」や「いたずら者」を意味するもので、魔裟斗の“反逆のカリスマ”や山本KID徳郁の“神の子”と比べれば、とても主役級の響きではない。
 そう考えるならば、文筆や音楽での成功は、決して格闘家の知名度に頼ったものではなく、須藤個人の優れた資質によるものに違いない。

 高校時代には、レスリング(グレコローマン)でジュニア世界選手権の日本代表になり、大学卒業後の'98年に渡米して柔術の修行を積むと、帰国後はパンクラスやリングスなどで活動していた。
 K-1初登場は'02年で、当時、魔裟斗のライバルと目されていた小比類巻貴之と、K-1MAX日本代表決定トーナメント1回戦でぶつかった。
 「総合で立ち技もやっているとはいえ、本来、須藤は寝技がベースの選手。パンクラス参戦時に菊田早苗らと立ち上げたユニットも、寝技の攻防を主体とするものでした」(同)
 立ち技だけのK-1では、とても勝負にならないと見られていた須藤だが、試合開始早々にバックブローで小比類巻からダウンを奪う。結果は3R、ローキックによりKO敗戦となったが、強豪相手に善戦したことで一気に注目を集めた。

 翌年の同トーナメント1回戦では、ついに魔裟斗と対戦。極端に腰を落として酔拳のように体をくねらせながら、バックブローや前蹴り、胴回し回転蹴りなどを次々と繰り出した。
 結果的には、冷静に対応してローキックを当てていった魔裟斗の判定勝ちとなったが、日本のトップ選手に最後まで決定機を与えなかった須藤も、大いにその名を上げることとなった。
 また、試合ぶりとともに人気を集めたのが、ド派手な入場パフォーマンスだ。ダンサーを引き連れて、自ら中心となって踊りながらの入場は、いつしか試合と並ぶ見ものとなっていった。

 格闘家としてのキャリア、そして入場パフォーマンスで須藤の頂点となったのが、'05年の大みそか、HERO'sミドル級トーナメント決勝の山本KID戦であった。元レスリング五輪代表の宮田和幸らを下し、決勝に進出した須藤は、大勢の芸妓や若い衆に扮したダンサーを引き連れ、花魁道中さながらの入場で大阪ドームを沸かせた。
 だが、試合自体は実に呆気なく終わってしまう。KIDのパンチで仰向けに倒れた須藤は、すぐさま上体を起こして防御の姿勢をとったものの、そこへKIDが追撃のパウンドを繰り出したところで、レフェリーのストップがかかった。
 「この早すぎるストップには、『KIDを勝たせるためでは?』との疑惑の声が上がったほどでした」(同)

 1R4分39秒。花道にいた時間よりも短い結末だったが、須藤は激しく抗議することもなく、ただ苦笑いを浮かべていた。
 1年後の'06年大みそか。ジャクソン・ページに鮮やかな三角締めで勝利した直後、須藤はリング上で突然引退を発表した。
 あの苦笑いは、いろんな意味で日本の総合格闘技に、見切りをつけてのものだったかもしれない。

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