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巌流島と名刀「厚藤四郎」の不思議な縁

 2017年は「巌流島の戦い」40周年の記念すべき年であり、なんらかの行事が行われるかもしれない。もちろん「巌流島の戦い」と言ってもリアルライブとしてはアントニオ猪木対マサ斎藤の一戦であり、数年前に四百周年(諸説ある)を迎えた宮本武蔵対佐々木小次郎の決闘ではないのだ。さておき、現在の巌流島は下関市の公園として整備され、市民や観光客が憩う名所となっている。ただ、住所表記が下関市大字彦島字船島であるように、巌流島の正式な地名は船島である。

 話を戻すが、いわゆる巌流島には興味深い歴史があり、そこにはいくつかの謎も秘められているとされる。

 まず、巌流島のこれまでを簡単におさらいすると、歴史に島が初登場するのは文禄元年(1592年)の秀吉遭難事件である。ところが、この事件には不可解な点がいくつかあり、島は歴史に登場した段階から謎を秘めていたのである。

 まず、秀吉遭難事件の概略を説明すると、朝鮮出兵中に母である大政所が危篤との報を受けた秀吉は、急ぎ船を仕立てて肥前(佐賀県)の名護屋城に構えた陣より出発し、海路で大坂城へと向かった。ところが、乗船は巌流島(船島)の南東付近にあったとされる岩礁に乗り上げ、たまたま付近を航行していた毛利秀元の船に助けられたという。

 秀吉が遭難した浅瀬は満潮時に海没するうえ、関門海峡は潮流が激しく、加えて戸ノ上おろしと呼ばれる突風が吹き付けることから(戸ノ上は門司区大里の戸上山であろう)、秀吉遭難以前より難所として恐れられていた。岩礁は地元で篠瀬(しのせ)と呼ばれていたが、時には「死の瀬」の字が当てられていたほど、付近では知られた難所とされる。

 ともあれ、秀吉は九死に一生を得たものの、大坂へたどり着いたのは大政所の死後だった。母の死に目に会えなかったことを知った秀吉は、その場に崩れ落ちたと言う。

 とまぁ、これが秀吉遭難の概略だが、この物語にはいくつかの謎があるとされる。それはまず遭難の原因であり、また秀吉御座船の船頭が迎えた運命であり、そして御座船の名前である。加えて、名刀「厚藤四郎」もまた、これらの謎と深く関わっているのだ。

(続く)

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