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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈グレイシー柔術が降臨した日〉

 最初はごく一部のマニアが気に留めただけ。「マイナーな格闘技大会がアメリカの片田舎で行われたらしい」というほどにすぎなかった。
 1993年11月、コロラド州デンバーで開催された『UFC1』。相撲や空手、キック等々の選手による異種格闘技トーナメント−−。“目つぶしとカミツキ以外は何でもアリ”というそのルールからして、どこかマンガチックで、これを“最強”を決める闘いだと考える者は皆無に等しかった。
 パンクラスのエース外国人ケン・シャムロックや、極真空手の出身でUWFやRINGSでも試合をしているジェラルド・ゴルドーといった日本で名前の通った格闘家の参戦もあったが、結果優勝したのは無名のホイス・グレイシー。そのバックボーンである『グレイシー柔術』というのもそれまで耳にしたことのないウサンくさい響きで、シャムロックやゴルドーの敗退も「トーナメント制による展開上の紛れ」と受け取るファンがほとんどであった。
 「格闘技専門誌などでも、当初UFC大会については“ケンカまがいの試合”というぐらいの情報しかありませんでした。日本では前田日明や佐竹雅昭とやり合ったゴルドーも勝ち上がりの段階で骨折していたというし、勝ったホイスもきっとフロックなのだろうと考えていたのです」(格闘技ライター)
 格闘技ファンの反響も優勝したホイスではなく、ゴルドーの狂気…倒れた相手の顔面を全力で蹴り上げ、容赦なく後頭部へヒジを打ち下ろす、そんな一つ間違えば相手を殺しかねない闘いぶりへと向けられた。UFCとは、単に「野蛮で危険なもの」と見られていたのだ。

 だが年が明けて3月に開催された第2回大会、ホイスはこれに参戦した日本の市原海樹を1回戦で破ると、全く危なげなくトーナメント連覇を果たす。
 「市原は一般的には無名でしたが、所属する大道塾は知る人ぞ知る存在。空手に寝技や投げ技の要素を取り入れた日本の総合格闘技の草分けで、そのトップである市原なら“勝てる”というのが多くの格闘関係者の予想だったのです」(同・ライター)
 それが完敗したことで“グレイシー強し”との認識が急速に広がっていく。
 後になってわかることだが、実はこのUFC大会、グレイシー柔術のプロモーションのために、同一族の長であるホリオンが企画したものだった。つまりホリオンをはじめとする一族全員が、試合をやる前から絶対的勝利を確信していたというわけだ。“何でもアリの試合形式でグレイシー柔術に勝るものはない”と。

 これにいち早く反応したのが、このとき修斗を主宰していた佐山聡。
 同年7月にバーリトゥード・ジャパンオープン'94を開催すると、そこにホイスの実兄であるヒクソン・グレイシーを招聘したのだ。
 UFC1ではホイスのセコンドに就いたヒクソン。同大会優勝後のホイスの「兄は私の百倍強い」なるコメントは当時さほど注目されず、兄への世辞ぐらいに受け取られていたが、しかしそれが全く大げさではなかったことが、このときの試合で証明されることになる。

 試合の早々から相手を寝技に引き込むと、マウントポジションを取ってからのチョークスリーパー。打撃や投げ技のハデな攻防のない闘いぶりは、一見すると「いつの間にか勝っている」かのような印象だが、しかしそんなシンプルな戦術に相手はまるで抵抗ができない。
 完全なるヒクソンの一人舞台を見せつけられて、どうやらそれが“何でもアリ”の闘いにおける勝利の方程式であることに、ようやく日本の格闘関係者たちも気付かされたのだった。

 そうして、その4カ月後。安生洋二の『グレイシー道場殴り込み&返り討ち事件』が勃発する。
 UWFインターナショナルへの参戦交渉のためにヒクソン道場を訪れた安生は、そこでのスパーリングで一方的にやられてしまった。
 「相手のホームで、そもそも闘うつもりでなかったなど安生にも同情の余地はあるのですが、顔面崩壊状態になるまでボロボロにされたインパクトは強烈でした」(同・ライター)
 このときの映像を佐山が公開したことにより、「グレイシー最強伝説」はファンの間にも一気に広まっていったのだった。

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