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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(70)

 昭和8(1933)年2月、笹尾の他、数名の社員を伴って徳次は東南アジアに出張した。販路拡大の市場調査および資材買付が目的だった。徳次一行はタイ・バンコクに滞在中に松岡の国連総会退場を知る。

 昭和9(1934)年、NHKはラジオ聴取者数150万人と発表。早川金属工業研究所も工場を増設し、200名を超す従業員数になった。中国・上海に出張所を開設したのもこの年だ。昭和10(1935)年5月1日、それまでの徳次の個人経営から資本金30万円の株式会社として早川金属工業研究所を法人化した。
 昭和11(1936)年、海外出張所を天津、台北、ソウルなど16カ所に開設。経営を法人化し、翌昭和12年には社名を早川金属工業株式会社と変更した。大正13(1924)年の創業時には235坪だった敷地も、今や3042坪になった。

 昭和11年12月末、間歇式コンベアシステムが完成。従来の手送り式に改良を加えたもので、日本初のシステムである。このシステムを使えばラジオ受信機1台の組立に要する時間は56秒だった。
 昭和12年の初仕事から運転開始だ。このシステムは各界の関心を集め、同業者は勿論、各工業界からの見学者が多数、訪れた。見学者の多くは電車を利用した。早川金属工業研究所設立の頃は、のどかな田園地帯だった西田辺も、この頃では阪和電車が走り、工場周辺は開けて店舗も増え、すっかり街らしくなった。従業員が総出で工場前の道普請をしたことなど、遠い昔のことだ。徳次には、当初から“不便なこの土地を発展させてみせる”という抱負があった。その抱負を、徳次は事業発展とともに着実に実現していった。
 昭和11年5月13日、徳次が“生涯の恩人”として感謝し、尊敬した芳松が死去した。63歳だった。昭和5年におかみさんに先立たれ一人で暮らしていた芳松を、徳次は上京して無理に口説き、大阪の家に連れて帰った。芳松は逝去するまで、足かけ3年を徳次の家で過ごした。何かと遠慮する芳松には簡単な仕事を手伝ってもらったりもした。
 徳次は会社の重役に諮って全従業員、取引関係者、知人達の参列する社葬をおこない、遺骨は芳松の菩提寺である東京・亀戸の東覚寺に納めた。

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