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「時代」を彩った男と女・あの人は今 元プロレスラー阿修羅・原さん

 かつて、日本を代表するラガーマンからプロレスラーに転向した阿修羅・原。その貫禄たっぷりのリングネームに負けない風貌でリングを暴れ回った原は、とりわけ天龍源一郎とのタッグ『龍原砲』で一時代を築いた。

 47年、長崎県・森山町(今の諫早市)に生まれ育った原は長崎県立諫早農業高時代にラグビーで頭角を現した。東洋大ー近鉄と進み、近鉄時代には日本人として唯一の世界選抜メンバーに選ばれた実績がある。 
 76年、国際プロレスに入門し阿修羅・原のリングネームでWWUジュニアヘビー王座を奪取するなど、華々しく活躍した。ところが、81年に国際プロが活動停止となり、原は全日本プロレスに移籍。ジャイアント馬場にその闘いぶりを買われた天龍とのシングルマッチはいまでも好勝負に数えられる。84年に一旦は全日本を離れたが、翌年復帰し、天龍との龍原砲で全日本を支え、一時代を築いた。

 原について「とにかく、面倒見の良い方でした」と語るのはかつての後輩。しかし、その面倒見の良さがアダとなって自らのプロレス人生に幕を引くことになる。
 義理堅い原は、自らは酒が嫌いでも天龍らとの付き合いは律儀に通し酒の場に付き合った。お金のない後輩にご飯をおごったり、スタッフ、マスコミとの繋がりも大事にした。同郷・長崎出身の長与千種をはじめとする女子レスラーもかわいがり、当時大人気だった彼女らの労をねぎらうため毎回自分持ちで支払いをしていたのは有名な話だ。
 とはいえ、レスラー転身時から既に経済的にあまり富んでいなかったといわれ、原は借金を重ねてまでも周囲に対しての付き合いを大切にしてしまったのだ。雪だるま式に膨らみ続ける借金…ついには会社にまでその取り立てが及ぶことになってしまった。この時、馬場社長は原がしっかり話をしてくれるなら借金の肩代わりをしても良いとまで言っていたそうだが、原自身が「社長に合わせる顔がない」とし行方をくらまし、全日本も仕方なく解雇という選択肢を選んだ。
 プロレス引退後は故郷に帰り、町のスポーツ交流館で、町民の健康づくりを提案するインストラクターを務めた。その後は母校・諫早農高ラグビー部のコーチとなって名門復活に全身全霊で臨み、その甲斐あって02年に母校は全国大会に出場したが、原自身は母の介護のために退任。04年にその母が亡くなったいまは脳梗塞で倒れた父の介護に専念している。  
 仏教の“神”の意のリングネームを持った男は、度重なる“修羅場”をくぐり抜けながら人生を歩んでいる。

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