「お兄ちゃん、ここで決めてよ。さっきからずっと回っているでしょ」
遣り手婆の声につられて店をのぞくと、若い美女が微笑んでいた。私が歩いていたのは若い女性ばかりがいることで有名な飛田新地のメインストリート「青春通り」と呼ばれる一角だ。
華やいだ青春通りから外れた場所に、少しばかり年がいった娼婦がいる通りがある。客たちから「妖怪通り」と呼ばれる一角だ。
その通りにある店で、かつて春を売っていたのが、今回話を聞いた智子(48歳)である。
現在、智子は大阪市内の団地に両親と暮らしている。風俗から離れて5年になる。
「初めて飛田で働いたのは、36歳の時でした。体型もぽっちゃりで、若くもなかったので、外れた場所のお店で働いていましたけど、おばちゃんはいい人やったし、私にとって最高の仕事場でしたね」
そもそも智子が飛田で働くきっかけは何だったのか。
「私は高校を卒業して、会社の事務をやったりしていたんですけど、10年ぐらい働いたとき、『もう少し楽にお金を稼げる仕事はないか』と思って、水商売を始めました。でも、お客さんとの駆け引きが面倒くさかったりして、水商売は無理だなと思い始めた頃、クラブの同僚から勧められたのが飛田だったんです。それまでデリヘルとかも少しやったことがあったんで、セックスにはあんまり抵抗がありませんでした」
実際に働いてみたら、飛田は智子にとって最高の職場だったという。
「デリヘルみたいにいきなりホテルで顔を合わすわけではないので、お客さんも私を見て気に入って来てくれるから、変な人がいないんですよ。酔っぱらっていたり、汚いお客さんは、おばちゃんが入れないしね」
店先に座る遣り手婆が、まず客を吟味する。昔ながらの色街には、働く女性を守るシステムがあるのだ。さらに、広々とした遊廓建築も、智子のお気に入りだったという。
「部屋は10畳ぐらいあって、いま暮らしている団地より全然広かったですね。自分の好きなキャラクターを置いたりして、気持ちも安らぐんですよ。何の不満もない仕事場でした」
週4日ほどの出勤で、月に30万円は手堅く稼げたという。だが、30万円とは、飛田では稼ぎ頭の女性なら3日ほどで稼ぐ金額だ。とはいえ、ブランド品に興味もなく、取り立てて欲しいものもなかった智子にとっては、十分な稼ぎだった。
ただ、淡々と日常が流れていけばよかった。ところが、智子が40代に差し掛かった頃から太い客が次々と来てくれなくなった。
「年上の人が多かったので、会社を定年になり自由に使えるお金がなくなったり、亡くなった人もいました。私自身も年齢がいっていたので、新しいお客さんを掴めなかったんです。それで収入がどんどん減りました」
そして、5年前に飛田を離れたのだった。
これまで、私は元娼婦たちの取材を重ねてきたが、彼女たちが風俗から離れる理由のほとんどは、結婚であったり、新たな仕事を見つけたことに起因していた。しかし、智子の場合、自分の意思ではない。年齢を重ねて商売として成立しなくなったため、売春から足を洗わざるを得なかったのだ。
現在は両親と同居している智子。仕事はスーパーのパートだという。
「仕事は週に3日か4日。風俗で働いていた頃は一人暮らしでしたが、パートだけですとさすがにしんどいので、両親の暮らす団地にいます。2人の年金と私のパート代で何とか生活保護を受けずに生活しています」
しかし、70代をすぎた両親をいつまでも頼るわけにはいかない。いずれ自活せねばならない時が来る。
「そうですね。本来なら、私が面倒を見なきゃいけないのに。だけど、どうしたらいいのか思いつかないんです。あまり将来のことは考えないようにしています」
団地暮らしで近所付き合いもほとんどない。当然、風俗で働いていたという過去は誰も知らない。
「そのことは、誰にも言うつもりはありません。この年になって、もっと真面目に働いておけばよかったかなと思うことはありますね」
彼女が初めて風俗で働いた10年以上前は、今より景気もよかった。しかも彼女自身も若かったことにより、客もついた。
かつて横浜の黄金町にちょんの間があった頃、若い外国人娼婦が働く一帯から川を挟んだ対岸の遊歩道に、足を引きずって歩く70代くらいの年老いた娼婦がいた。年齢差はあるが、その老娼婦の姿と智子の姿が重なって見えた。
いずれ智子は、どこかの色街に戻ることになるのではないか。彼女は、これまでの生き様を悔いているように言ったが、できれば過去に戻りたがっているように思えてならなかった。
「そうですね。生きていくためには、そうしないといけないかも」
売春に染まってしまうと、容易には抜けられない。そのことを、智子の存在が物語っているのだった。