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山口組 竹中正久四代目暗殺事件 ヒットマンが明かす36年目の胸中

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提供:週刊実話

〈中途半端に、自分は助かろうなんて思ったらダメと、私は心に決めました〉

 四代目山口組・竹中正久組長を暗殺した実動部隊のリーダー、長野修一受刑者の言葉である。

 ジャーナリスト・木村勝美氏の取材に応じ、長野が記した平成14年からの手紙が、単行本『竹中四代目暗殺事件のヒットマン・長野修一〜獄中書簡356通全公開〜』(かや書房刊)にまとめられた。長野は現在、無期懲役囚として熊本刑務所に服役している。

 昭和19年、長野は兄、姉、妹、6人兄弟の5番目として福岡県に生まれた。〈貧乏な家だったけど、家庭内は明るくて、いつも笑顔の絶えない家族でした〉と子供時代を明かしている。しかし、22歳の頃に小倉の不良グループに入り、約2年後には渡世に足を踏み入れたという。初代山広組の直参になったのは昭和56年ごろ、事件の約3年前だった。

 あの悲劇から丸35年が経ち、自身が75歳になった現在でも、事件を振り返る記述には、当事者しか知り得ない生々しさが感じられた。

 昭和59年6月5日、田岡一雄三代目の“遺志”による竹中四代目体制が決定したが、反発する山本広組長代行派が定例会をボイコットして山口組を脱退。新組織「一和会」を結成し、山口組が初めて分裂した。

 長野は山本会長の警備を担う行動隊の隊長に就くが、状況が緊迫するにつれ、その任務はキナ臭いものに変わっていった。山口組が一和会への絶縁を意味する義絶状を各友好団体に送り、山本会長の身にも危険を感じるようになったとき、四代目暗殺を決意したという。

〈行動隊の中から5名ほどを選び出し、特別の行動を取りはじめたのは、その頃からです。夜中に高速道路で拳銃をはじいたり、三重や奈良の山中に入り、拳銃を撃ったり、日頃は扱いなれてない拳銃の練習をしました。そして、一方では竹中組長へのマークもはじめました〉

 竹中四代目が立ち寄る大阪・吹田のマンションの別室で、長野ら4人のヒットマンが襲撃のタイミングを図るようになって7日目、山口組にとっても、長野自身にとっても“運命の分かれ道”となる日が訪れる。

 昭和60年1月26日の午後9時すぎ、見張り役から竹中四代目の到着を知らせる無線が入り、ヒットマン3人が急襲。中山勝正若頭、南組・南力組長は即死状態で、現場に合流した長野は、被弾しながらも車両に乗り込む竹中四代目を追った。ボンネットに飛び乗り拳銃を向けたが、急発進した車に振り落とされて気を失い、運ばれた病院で逮捕された。

 事件から2週間後、ヒットマン3人が自首し、翌年、大阪府警は首謀者の一和会幹部と見張り役3人も逮捕。見張り役以外は無期懲役判決を受けたのである。

 長野は行動を共にしたヒットマン3人について、服役中も胸に秘めた思いをこう綴っている。

〈私は、片時も忘れたことはありません。私にたったひとつしかない命を預け、『兄貴と一緒に火の海に飛び込みましょう』と言ってくれた人たちです。そして、約束通りにみんな火の中に飛び込んでくれたのですが、幸か不幸か、みんな生きて塀の中で生活をしております。『四代目を殺れ』と指示を出した以上、塀の中での生活に入っても、あいつらの良い見本にならんとアカンでしょう。それが私の置かれた立場じゃなかろうかと思っております〉

 また、事件から30年経った平成26年1月26日付の手紙では、改めて当時の状況を思い返し、犯行に至るまでの“偶然”についても触れている。

〈世の中には不思議なことがあるもんです。大阪には数えきれないくらいのマンションがあるというのに、私が借りたマンション(第1アジト 筆者注)と、大将の女性が住んでいたマンションが同じ家主だったんです。そして、もうひとつ。事件当日のその日だけ、私はみんなを誘ってレストランに寄り、食事会を開いたりしたんです。そして、日頃はしないような話をして、みんなの気のゆるみを締め直したんです〉

 さらに〈私は、この事件後、いろいろと考えてみても、何かあの当時起きたことが、諸々と1本の細い糸で結ばれているような気がしてならんのです〉と、思いを巡らせた。

 しかし、竹中四代目の死によって幕を開けた山一抗争は熾烈を極め、殺人25件、発砲事件296件にも上った。死者31名を出し、1000発以上もの銃弾が飛び交うヤクザ史上類のない血まみれの抗争だった。多くの犠牲のもとに抗争終結を迎え、関係者らの心には今も深く刻まれているはずだ。

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