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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈ジャイアント馬場vsスタン・ハンセン〉

 1981年5月、アブドーラ・ザ・ブッチャーの移籍に端を発した新日本VS全日本の“引き抜き合戦”。だが、一口に引き抜きと言っても両者の内情は大きく異なっていた。
 「言うならば“行き当たりばったり”だったのが新日本です。ブッチャーとの契約は、当時タイガーマスクの版権絡みで関係の深かった梶原一騎の関係者からの紹介を受けたもの。ブルーザー・ブロディにしても、全日本と契約でもめていたのを知ってから手を出しただけ。いずれも新日としての長期的な展望や戦略があったわけではありません」(スポーツ紙記者)

 ところが、全日本は違った。ブッチャー移籍の直後には、まず新日の悪役エース、タイガー・ジェット・シンを獲得したが、これはブッチャーの抜けた穴を埋めて陣容を整えるためだけのこと。あくまでも本命は“その次”にあった。ブッチャーの新日登場から半年が過ぎた'81年末。最強タッグリーグの決勝戦という最高の舞台に、ブロディ&スヌーカ組のセコンドとして登場したスタン・ハンセンである。
 「その直前まで新日のシリーズに参戦していただけに、ファンはもちろん関係者の多くも全く予想していなかった。何しろブロディですらギリギリまで知らされていなかったというほどの極秘事項だったのです。ブッチャー引き抜き事件の直後には既にハンセンと接触していながら、最も効果的な登場のタイミングをしっかりと計っていたわけです」(同・記者)

 新日に特大のダメージを与えると同時に、全日のエース外国人として育て上げる。綿密な計画の下に準備された引き抜き劇だったのだ。
 その結果、ハンセンの移籍は全日、新日双方のファンに強烈なインパクトを与えることになった。

 新日では既に猪木を凌駕したとの評もあり、善悪の枠を超えた人気を誇っていたハンセンが一体、全日のリングでどんな試合を見せるのか−−。そんな期待感と同時に、一種の戸惑いを覚えるファンも少なくなかった。
 「ハンセンとやったら、馬場は殺されるんじゃないか?」

 ハンセン初登場時の乱闘で、馬場はハンセンをチョップで撃退するなど互角に渡り合ってみせたものの、それでも不安はつきまとった。
 当時の馬場は同年春のチャンピオンカーニバルで優勝を果たすなど、まだまだ一線級にはあったが、しかし、そのスローモーな動きをお笑いのネタにされるなど衰えも顕著だった。ブロディら大型選手とも互角の闘いぶりを見せてはいたが、ハンセンはそれらとは異質な存在。ブレーキの壊れたダンプカーとも評されるそのスピードとパワーを兼ね備えたブルファイトは全日にはなかったもので、しかも全盛期を過ぎた馬場が相手では試合のリズムから何から到底かみ合うようには思えなかった。

 そんな期待と不安の中で迎えた翌年2月の初対決。“圧倒的ハンセン有利”の下馬評を覆し、馬場は試合開始早々から伝家の宝刀16文キックで攻勢に出る。
 ハンセンも持ち前の荒々しいファイトで応戦するが、腕折りの連発など馬場のペースで試合は進み、ついには32文ロケット砲までも炸裂。
 10分を過ぎたあたりでハンセンもラリアットを繰り出したが、これはロープ際で両者場外に転落。もみ合う中、レフェリーのジョー樋口が巻き込まれたところで試合は終了となり、12分39秒、両者反則の引き分けに終わった。

 新日時代と変わらぬハンセンのスタイルと、これに闘志むき出しで対抗した馬場。初対戦での白黒こそはつかなかったが、両者の闘い模様は予想外の好勝負となり、同年のプロレス大賞(東京スポーツ新聞社制定)で年間最高試合賞を受賞することになる。
 既にこのころには鶴田への“主役禅譲”を視野にマイペースな試合ぶりの目立っていた馬場が、真正面から闘ってみせる。これこそハンセンへの精一杯のもてなしであったともいえよう。
 ハンセンもまた、そんな馬場の心遣いに応えるかのごとく、馬場との抗争の後も鶴田、天龍らのライバルとして、またキャリア晩年には若手の壁として、引退の時まで全日にその身を捧げることになった。

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