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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー 〈決死の金網ギロチンダイブ〉 ブルvsアジャの“悪役頂上決戦”

 パイルドライバーともパワーボムともつかない角度で、後頭部からマットに打ちつけられたアジャ・コングの首がグニャリと曲がった。大の字にのびたその姿を見やり、ブル中野は金網のフェンスに手をかける。
 1990年11月14日、横浜文化体育館での金網デスマッチ。ゆっくりとその頂点まで上ったブルがリングを振り返ると、アジャはまだリングに仰向けのままだった。フェンスをまたいで場外へ脱出すれば、ブルの勝利が決まる。
 しかしブルは、それまでの激闘のダメージでふらつきながらも、フェンスの最上段に立った。そして、ブルの勝利を確信して歓声を送る観客の意に反し、リングの中へと体を向けた。胸の前でゆっくりと合掌するブル。その表情は遠目にも固く強張っていた。

 次の瞬間、100キロを超えるブルの巨体が宙を舞う。約4メートルの高さからのギロチンドロップは、アジャを完全KOしたのと同時に、長年にわたる女子プロレスの歴史に新たな地平を切り開く一撃となった。
 「そもそもブルとアジャは、ヒール(悪役)ユニットの『獄門党』から袂を分かったもので、ヒール対決がビッグマッチのメーンを張るというのは、過去になかった。それが満員の観客を集め、話題となったことで、以後の女子プロレス界の流れが変わっていきました」(スポーツ紙記者)

 ベビーフェース(善玉)とヒールの間に、確固たる線引きがあったままなら、以後の団体対抗戦でも焦点がぼやけて、盛り上がりに欠けていたかもしれない。
 「ベビーとヒールの区分けがあいまいになったことで、選手の評価基準が男子と同様に“強さ”へと移ることになりました」(同)

 以前にも、ジャガー横田やデビル雅美など強さを売りにした女子レスラーはいたが、それはベビー側の敵役としてのもの。絶対的な強さを誇る王者やヒール役に挑む、可憐なベビーフェースという枠組みがあってのことだった。
 「クラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)は格闘技的な強さも人気の要因でしたが、あくまでも主軸はダンプ松本率いる極悪同盟との抗争。キックなどを多用したのは、当時のUWF人気にあやかったものでした」(同)

 また、ブルの金網ギロチンダイブ以降は、女子プロレスの観客席の様子も変わり、男性客が目立ち始めた。それまでは、女性ファンがリング上の憧れのスターに声援を送る、言うなれば“肉体版タカラヅカ”の世界だったものが、「女子はこんなにすごいことをやっているのか」と、広くプロレスファン全体に知られることになったのだ。
 「力道山が嫌ったことから、長い間、女子プロレスをタブー視する傾向が紙媒体にはあって、ビューティ・ペア(ジャッキー佐藤&マキ上田)やクラッシュギャルズの全盛期でも、恒常的に報じているのはデイリースポーツぐらいでした。ところが、次第に専門誌も女子を大きく取り上げるようになり、2回目の金網ギロチンは『週刊プロレス』(ベースボール・マガジン社)の表紙にまでなった。それが男性ファンにとって、女子の会場へ行くことへの免罪符にもなった」(同)

 そしてもう一つの変化が、選手の引退時期である。女子プロレスの基準が強さを競う闘いとなったことで、それまでの25歳定年制というしきたりの意味は薄れ、強い選手はそのままリングに上がり続ければ良いという意識が、選手の間にも広がっていった。
 実際のところ、ブルも所属していた全日本女子から何度も引退勧告を受けたというが、それを拒んで“女帝”としてリングに上がり続けた。

 '92年11月、アジャに敗れてWWWAの赤いベルトを手放してからは、米国のWWF(現WWE)に転戦し、現地の女子王座も獲得。帰国後には神取忍とのチェーンデスマッチで勝利を飾り、'97年に左ヒザの故障で引退するまで、ヒールの枠を越えた存在として君臨した。
 一方のアジャも45歳となった今なお、こちらもまたヒールを越えたレジェンド・レスラーとして広く活躍を続けている。

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