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俺達のプロレスTHEレジェンド 第25R 度肝を抜いた“スーパーフライ”〈ジミー・スヌーカ〉

 その活躍期間の長さと対戦相手の多彩さにおいては、歴代レジェンドレスラーの中でもトップクラスだろう。初来日の日本プロレスからWWEでのレジェンド軍まで。吉村道明ともY2J(クリス・ジェリコ)とも試合をこなす、その振り幅の大きさこそがジミー・スヌーカのプロレスラーとしての高い能力の表れだ。
 インディ団体に呼ばれてその知名度でお茶を濁すのとは違い、60歳を過ぎてなおメジャーな舞台から“選手”としてオファーを受けるレスラーは、なかなかいるものではない。日本では「ブルーザー・ブロディのパートナー」=脇役イメージの強いスヌーカだが、しかしアメリカでは事情が異なる。

 一つ例を挙げれば、AWAが1986年、WWFの『レッスルマニア』に対抗して開催した『レッスルロック』。ここでスヌーカは全16試合中14試合目の金網タッグ戦に出場して、ブロディ組を相手に勝利している(メーンは当時人気絶大のロード・ウォリアーズ、セミファイナルは同団体の絶対的存在バーン・ガニア)。
 同大会ではスタン・ハンセンもスヌーカの一つ前の試合に登場していて、これを見ても、アメリカにおけるスヌーカが、ブロディ、ハンセンと同格以上の扱いだったことがわかる。
 「スヌーカのどこがスゴいかといえば、ビルドアップされた明らかにヘビー級の身体から、ごく自然に空中技をこなしたところでしょう。日本ではジュニアの世界で広まったスワンダイブ式の技も、スヌーカはその以前から軽々とこなしていましたからね」(プロレスライター)。

 ロープに走った相手の頭上を飛び越すリープ・フロッグの高さなどはまさに格別で、そこから繰り出すバックハンドチョップまで一連の技の美しさは、かのルー・テーズも賞賛したほどである。
 しかしながら、日本におけるスヌーカはしばしばアメリカでの動向に左右されてアングルが定まらず、これがいまひとつ評価の高まらない要因となった。

 日プロ参戦以来、約10年ぶりの来日となった全日では、当時NWAミッドアトランティック地区の看板カードであったリッキー・スティムボート戦を再現するという触れ込みで、つまりはリッキー売り出しのための添え物扱いとされた。
 ブロディとタッグを組むようになってからも、スヌーカのWWF本格参戦が決まると、突如タッグ解消のための“分裂アングル”が組まれ、しかも決着戦では双方の価値を落とさないためだろう、ジャンボ鶴田の乱入という実に奇妙な終幕となった。
 次の全日参戦では、ハーリー・レイスとのタッグで馬場&鶴田と対戦すると、アメリカでの人気を反映してスヌーカが鶴田をピンフォール。日本のファンからすれば突然の格上げに戸惑うばかりで、これ以降レイス&スヌーカ組を売り出すのかと思えば、WWFでの人気が上がり過ぎてスケジュールの都合がつかず、最強タッグへの出場自体をキャンセルという、実にチグハグなものとなってしまっている。

 新日へ参戦するようになってからも格付けが定まらなかったのは同様だ。
 当初は藤波辰爾のライバル的存在として勝ち負けを繰り広げたが、ブロディが移籍してくると、WWFでもジョバー(興行を盛り上げるためのやられ役)になりつつあった状況を踏まえてか、すっかり2番手に収まってしまう。
 「スヌーカ自身も、プロモーターの意図に従順だったのでしょう。ブロディとのタッグでは豹柄パンツに素足という独自のスタイルを潜め、ブロディに合わせるように黒タイツとリングシューズを着用していました。自分らしさを出すことに貪欲であれば、もっと日本でも面白い存在になったと思うのですが」(同・ライター)

 メーンに登場していたころよりも、むしろブロディの死後、'88年に2代目タイガーマスク(三沢光晴)とのコンビで最強タッグに出場したときの方が「肩の力が抜けたように良い動きをしていました」(同)との声もある。
 '83年、マディソン・スクエア・ガーデンでの金網マッチ(vsドン・ムラコ)で披露した金網最上段からのフライング・ボディーアタック。この一発で“スーパーフライ”の呼び名を定着させた。そんな衝撃的な瞬間を、日本のリングでも見せてもらいたかったものである。

〈ジミー・スヌーカ〉
 1943年、フィジー出身。ボディービルダーとして活動した後、'69年にデビュー。初来日は'71年、日本プロレス。以後全日、新日に出場し、主にブロディとのタッグで活躍。2009年には66歳にしてレッスルマニアに参戦。

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